デジタル版「実験論語処世談」(24) / 渋沢栄一

3. 諸侯「春秋」を畏る

しょこうしゅんじゅうをおそる

(24)-3

 孔夫子の志が哀公の十一年に六十八歳で郷国の魯に帰らるるまでは政治の実際に臨んで自分の意見を行はうとするにあつた事は、既に是れまでも申述べた通りで、又福地桜痴居士なぞも明治三十一年に刊行した「孔夫子」一巻のうちに詳しく之れを論じて居るが、実地の政治舞台に立つて自分の意見を行ひ得る見込が全く絶えてしまうや、今度は従来の希望を一変されて、弟子を養つて文教を説き、之によつて諸侯を動かし、精神的方面から諸侯の心に喰ひ込んで、我が志を行はうとせられたものだ。その一方便として魯の史記により「春秋」を編纂し、寸鉄よく人の心胆を寒からしむる如き筆法を以て、史上に顕はれた人物を忌憚無く批評に及ばれたので、一たび「春秋」を繙いた諸侯は、当時何となく自分の身の上をアテコスられでもしたかのように感じ、皆戦慄したものである。私は「春秋」を能く読んで居らぬので、詳しい事は知らぬが、有名な章句の一に「鄭伯克段于鄢。」(鄭伯、段に鄢に克つ)」といふのがある。何んでも無いような短い一章句に過ぎぬが、之を読んで当時の諸侯は、頗る畏怖の念を催したものなさうだ。何故であるかといふに、それには所因のある事で、鄭の武公の妻の姜氏といふ女は、長嫡子の荘公と申す子を憎んで次子の段を愛し、遂に隠公の元年夏五月に此の段といふ子をして兄に反いて鄢京に拠らしめた。そこで武公、即ち当時鄭の王であつた兄が弟の段を討つ事になつたのだ。斯く兄に反いて起つた弟は素より不弟の至りであるが又自分の不徳を省みずして弟を討ち、之に克つて自分の位置を安固にした兄の鄭伯も実に人情を弁へざるの甚しきものであるとの筆誅の意がこの短い一章句のうちに寓せられてある為め、斯んな見苦しい事ばかりをして来て居る当時の諸侯たちは、「春秋」の斯の章句が単に鄭伯を譏る為のみに載せられたものと思へず、自分等の行動をも之によつて忌憚なく批評されたかの如くに感じ、甚く畏怖したのである。

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キーワード
諸侯, 春秋, 畏る
デジタル版「実験論語処世談」(24) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.157-164
底本の記事タイトル:二三五 竜門雑誌 第三四八号 大正六年五月 : 実験論語処世談(二四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第348号(竜門社, 1917.05)
初出誌:『実業之世界』第14巻第6,7号(実業之世界社, 1917.03.15,04.01)