デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278

 談話は余り剥き出しにせず、夫れと無く要領を得るには多少の機智を要するが、其間に一種名状すべからざる趣味を発見するに至るもので、角力季節の頃に幾ら角力の話を持ちかけても其話に乗つて来ぬ如き人は、問はずして角力に興味を持たぬ人である事が知れる。子貢が孔夫子に対つて伯夷叔斉兄弟の話を持ちかけ、之によつて孔夫子が衛の王室に於ける父子の戦争に対し、如何なる態度に出られるかを探つたのは、誠に機智に富んだ行方で、話も斯んな風に持ちかけてもらふと、答へる方も気詰りがせず、誠に楽である。序に一寸兄弟関係の事に縁があるから頼山陽の面白い逸話を一つ談話して置くが、これは私が曾つて福地桜痴居士から親しく聞知した処のものだ。
 桜痴居士の父とか従兄とかであつたさうだが頼山陽の門人で、或る日、山陽先生の宅に門人共が多数寄り集つてる処に一座し、山陽先生を囲んで四方山の談話に耽つてる最中、談偶〻色んなものの起原に及び、詩の起原は何にあるとか、絵の起原は斯うであるとかいふ事になつた。その時桜痴居士の父とか従兄とかいふ男は、「和歌の起原は論語にある」と言ひ出したのである。一座の者大に怪み、「それは又何故か」と問ひ詰めると、その男澄したもので、「論語顔淵の篇に――司馬牛憂へて曰く、人はみな兄弟あれど我れ独り亡し――とあるだらう。まさに三十一音になる。これが和歌の起原だ」と弁じ終つたので一座みな其頓智の面白きに興を催して居ると、傍にあつた山陽先生は「そんなら、俳諧の起原は何にあるか知つてるか」と其男に問ひ返した。その男も、和歌の起原に就てだけは面白可笑しく述べ立てたが、俳諧の起原に就ては未だ考へて居らなかつたので「知らぬ」と答へると、「そんなら教へてやらうが、俳諧の起原は左伝にある。左伝の開巻に――夏五月鄭伯段に鄢に克つ――、まさに十七文字だらう。これが俳諧の起原である」と、山陽は元来頗る機智に富んだ才子であつたから、旨く附会して話したのである。この鄭伯と段とも兄弟であることは、前条に談話したうちにも一寸述べて置いた通りだが、如何にも「夏五月鄭伯段に鄢に克つ」の一句は、十七文字なる上に「夏五月」と季まで詠み込んであるから、まさしく俳諧の体を具へたものだ。この一つの逸話によつても、如何に頼山陽が才に富んだ人であつたか知り得られる。論語の本文とは全く無関係だが、一寸想ひ出したから面白い逸話だと思つて談話して置く。
 さて私には妹はあるが、兄も無く又弟も無いので、兄弟の間柄とは何んなものか、兄弟を持つてる方々の様に十分その辺の消息を心得て居らぬのである。然し、兄弟の間柄のみならず親子の間柄と雖も、親が子女を何でも自分の想ふ通りに仕上げ、自分と同じ型の者にしようとすれば、遂に意志の疏通を欠き、感情の疎隔を来すまでにもなるのだ。兄弟の仲が睦じく無くなり、互に仇敵を以て相見るやうになるのも、多くは兄が弟を自分と同じ型のものに仕上げ、之を自分の想ふ通りの者にしてしまはうとするより起る事である。私が今日までの間に実験した処によれば、兄弟喧嘩の多くは、その原因が大抵這裡にあるかのやうに思はれる。それから、家督を相続する権利のある長男が、親から譲り受ける財産を、自分一人の所有であるかの如くに思ひ、少しでも之を弟に分割してやれば、自分の所得が減少するに至るべきを憂ひ、私心を動かして親の財産を独占にしようとし、弟たちの為にする出費を惜んだりすることなぞも亦、兄弟不和の原因を成すに至るものだ。
 親の遺産は、法律上の形式から謂へば成る程家督相続人の所有となるべきものに相違無からうが、それは形式上だけの事で、実際に於ては相続人一人の財産であるとは謂へぬのである。もともと親の財産であるんだから、親の子たる兄弟姉妹は一様に其の恩恵に均霑するのが当然だ。然るに相続人一人のみが之を壟断し、他の同胞をして其利益に均霑せしめず、同胞の為に金銭を使ふ事を泥溝の中へ棄てるのも同じであるかのやうに思ふに至れば、勢ひ茲に兄弟の不和を招くことになる。兄弟が和親して仲よく暮らさうとするには、明治天皇が教育勅語に於て「兄弟に友に……」と宣り給へる如く、互に友情を以て相対せねばならぬものである。兄弟間に友情を重んずるといふ事が是れ即ち兄弟和合の秘訣だ。同胞の間は何事にも慾張らぬやうにし、兄は弟を自分の想ふ通りの型に嵌めようとせず、自由に其驥足を伸ばさせて置きさへすれば、決して兄弟の間に不和なぞの起るもので無い。兎角慾張つたり我意を強ひたりすれば、兄弟の争ひになる。之をせぬのが教育勅語に所謂兄弟に友なる所以だ。
 西郷隆盛卿と其弟の従道侯との御間柄が果して如何なるものであつたかは私も詳しく承知して居らぬが、従道侯は只今存生して居られても七十二三歳ぐらゐのもので、私よりも五六歳年少である筈ゆゑ、隆盛卿が四十余歳の時には従道侯は漸く二十余歳に過ぎず、御両人の間に年齢の懸隔が甚だしかつたから、相往来して互に肝胆を吐露し、事を共にするまでには至られなかつたらうが、明治十年鹿児島の私学校生徒に擁せられて隆盛卿が賊将に祭りあげられてしまつた時にも、従道侯が大義に徇つて朝廷にあり、悠然として国事に当つて居られた処を見れば、隆盛卿は自分の想ふ通りの型に弟を嵌め込んで自分の道具に弟を使ふなぞといふ如き私の心の無かつた方であらうと想像せられる。随つて、隆盛卿と従道侯との仲は至つて睦しく、隆盛卿は従道侯を可愛がり、従道侯は隆盛卿を尊敬して居られたものに相違無い。
 兄弟和合して互に力となりもし又なられもして居る実例は、私の知つてる狭い範囲でも決して少く無い。目下中央製紙会社の専務取締役を初めとし、東洋硝子会社の取締役、其他各種の会社に関係して居る大川平三郎は私の婿で、四女のてるが其妻になつてるのだが、その弟は之も東洋硝子会社の社長を初めとし各種の会社に関係して居る田中栄八郎である。この両人は性格が全然違つてると謂つても可いほどだが、至つて仲睦しく、何事にも両人が話し合つて事を決するやうにして居る。第一銀行の佐々木勇之助兄弟も仲々睦しい兄弟仲の一例で、勇之助の兄は佐々木慎思郎だが、この兄弟も何かに付けて相談し、諸事運んで行く様子だ。それから佐々木勇之助には明治十五年生れの長男謙一郎と、明治二十年生れの次男修二郎と、明治二十三年生れの三男和三郎との三人の男の子がある。長男の謙一郎は法学士で大蔵省に勤め官吏となり、次男の修二郎は之も法学士で第一銀行に勤務して居る。三男の和三郎は工学士で大阪の汽車製造会社の技師だ。兄弟三人それぞれ異つた方向を取り異つた職業に就き、一人は官吏、一人は商人、一人は技師といふやうになつてるが、三人の間には些かの蟠りも無く至極仲よく暮らして居る。斯く異つた職業に就てるほどだから三人の性格は勿論異つてるのだらうが、各自の欲する処に従つて特色を発揮し、互に自分の型に他の者を嵌めようなぞとせぬので、其間が旨く行つてるのだ。
 諸井恒平の兄弟なぞも亦仲の良い一例だ。諸井は埼玉県のもので、恒平の父泉衛は私と従兄弟の間柄であつたから、諸井恒平兄弟は俗に謂ふ私の復従弟になるのだが、私の方が恒平兄弟よりも年長の関係から、私も諸井一家の事には色々と相談に与かつて居る。それが為、恒平兄弟の間柄を能く知つてるが、一番の兄が恒平で、之が先代の次男である。東京商業会議所の議員で日本煉瓦製造会社の専務取締役を勤め、其他各種の会社に関係し、次が三男の時三郎で、之は手形のブローカーを業とし、謂はば仲買人だ。其次が四男の四郎で、東亜製粉会社の専務取締役以下各種の会社に関係し、是又実業家である。それから次が五男の六郎で、全く異つた方向を取つて外交官となり、昨今は布哇の総領事か何んかを勤めて居る筈だ。この諸井兄弟四人が又珍らしい仲の良い間柄で、外間から見ても羨ましいほどなのは、互に慾張らず互に侵さず、よく友情を重んじて行くからで、会社の重役、仲買人、外交官と謂つたやうに職業が異つても円滑に親睦和合して暮らせるのだ。私の知つてる人々のうちでは、この諸井兄弟、それから佐々木勇之助の子の兄弟などが最も睦しい兄弟の実例であらうと思ふのである。
 昨今船成金で評判の高い神戸の内田信也氏も兄弟四人で、同氏には三人の兄がある。長兄が内田誠太郎、その次の兄が窪田四郎、その次が石野卓爾で、内田信也氏は四人兄弟のうちの末子だと聞いて居る。信也氏は昨今船成金といふ事で豪い成功者になつてるが、決して之が為に兄たちを軽んずるやうな軽薄な真似をせず、よく友情を披瀝して居るので、四人とも至つて其仲睦しく、三人の兄はみな夫々内田系の会社に関係して同心協力、以て事業の発展を計つてるのである。信也氏の成功は同氏の力によること勿論だらうが、四人の兄弟が協力一致に因る処も与つて多からうと思ふのだ。
 私の埼玉県血洗島の生家は、これまでも屡〻申述べて置いた如く、先考の後を私の妹に婿を迎へて継がせることにしたのであるが、妹は私よりも一ト廻り年下で、明治四年十一月父の亡くなつた時にはまだ十八九歳ばかりの乙女であつたのだ。私が父危篤の急報に接して駆付けた際には幸に父も小康を得て、私の行くまで人事不省であつたのがうまく二日ばかり醒めてくれたので、其間に相続人のことに就て父の意見を尋ねると、「何うでも汝の思ふやうにせよ」との命であつたから、前条にも申したことのあるやうに、父の歿後須永才三郎を迎へて妹の婿とし、之に生家の家系を継がせることにしたのだ。才三郎は私の生家へ入籍してから名を市郎と改めたが、妹と市郎との間には元治と治太郎との二人の男の子がある。元治は先にも一寸談話した如く、工学博士で目下逓信省に奉職して居る。それで同人も弟の治太郎に家を譲り、血洗島に於ける私の生家は、二人のうちの弟になる治太郎が継いで現に其主人となつてるのだが、父の市郎は初め長男の元治に跡目相続をさせようとし、元治が成長して出京し東京で勉学するやうになつてからは、農科大学に入学させんとしたものだ。ところが当人は農科は自分の性に合はぬからとて肯かず、是非工科を修業してみたいといふので、工科大学に入り、電気工学を修めることになつたのである。父の市郎は、「元治は什麽も剛情で困る」なぞと言つてたものだが、古河市兵衛氏は元治の何処を見込んだものか、「あの子には見込があるから、是非自分の処へ寄こしてもらひたい。自分は渋沢と一緒に協同して何か営つてみたいと思つてる矢先、恰度好都合だから、あの子と一緒に仕事をするやうにしたい」との事であつたのである。
 古河と私とは、その以前にも既に一緒になつて多少の事業をしたことのあるほど故、古河に爾んな意があるならばそれも好からうといふので、元治を古河へ托することとし、明治三十三年東京工科大学電気学科を卒業し、一年志願兵を済ましてから、元治は古河の会社へ這入り、三十五年一月、足尾銅山の技師になつたのである。然し四月には独逸に渡つて伯林のシーメンス・ハルスケ社に入社して工場実習を遂げ、それから翌年瑞西チウリツヒの工科学堂に学び、帰途米国のゼネラル・エレクトリツク社で半年ばかり見学し、三十九年二月に帰京したのである。
 帰京するや又古河へ就職するやうにと、古河からも又父の市郎からも勧めてみたが、元治は――古河へ這入つてしまへば専心に電気学のみを研究して暮すわけにゆかず、什麽しても事業の経営なんかにまで関係せねばなら無くなる。さうすれば物質的には必然幸福だらうが、自分の身は幸にも父や栄一の余沢によつて衣食に何の不自由無く、この上富を追ひ求むる必要も認めぬから、それよりは寧ろ、専心電気学を研究し得らるる如き職に就きたいと申出で、古河への復職を肯んぜぬのである。依つて私よりも――一旦古河の給費で洋行までしたんだから猶且古河へ復るのが順当だ、古河へ入つてしまへば勿論電気学ばかりを研究して暮らすわけには行かぬ。古河で経営する事業に色々関係せねばならぬのみか、場合によつては古河の総支配人たる如き役をも勤めねばならぬ。然し、これまで随分古河の世話になつてるから、意を翻して古河へ復職しては什麽かと力説してみたのである。それでも元治は頑として肯かなかつたので、止むなく、古河との間に円満に交渉を遂げ、当人の希望する如く電気学を専心に研究し得らるる職を択び、明治三十九年二月より逓信省に奉職して技師に任ぜられ、現に同省の電気試験所第一部長の職にあるのだ。工学博士になつたのは明治四十四年六月二十六日で、英文を以て「同期交流発電機の特性」なる博士請求論文を大学教授会へ提出した結果である。
 私から申すのは少し嗚滸がましいやうだが、この元治と其弟治太郎との兄弟仲が又至つて睦しく、両人は全く其性格を異にするにも拘らず意志感情共に疎通し、互に友情を以て睦しく相対して居る。治太郎は元治と異なり、その性質が能く農たるに適して居るが、恭謙能く己を持し、現に血洗島の私の生家の主人でありながら、家に属する財産を毫も自分の所有と思はず、栄一や父から渋沢家へ伝へられたものであるからとて、之を保管する支配人たる如き心情で苟も家産を私する如き事無く、元治とも人情づくで円満に相談を纏めたる上、規約を設け、血洗島に属する財産は之を共有の如き形とし、それから挙がる収益の一部を当主の収入とし、又その一部を元治の家にも入れ、一部は積立てて世襲財産の如きものとし、血洗島の渋沢家は栄一の発祥した処であるからとて、之を永久に保存する為の財源に供する事になつてるのである。
子所雅言。詩。書。執礼。皆雅言也。【述而第七】
(子、雅に言ふ所は、詩、書、執礼、みな雅に言ふなり。)
 茲に掲げた章句の解釈に就ては、学者の間に意見が二た通りある。朱子集註に拠る一般の解釈は、孔夫子は口を開かるる毎に必ず詩経、書経及び礼記に就て談り、詩経によつては人情を理め、書経によつて政治の根本義を覚り、礼記によつて礼を実地に執り行ふ道を学べよと弟子達に向つて教へらるるを例としたといふにある。然し、物徂徠や猪飼敬所なぞは斯く解釈せずして、専ら古義に則り、孔夫子は詩経、書経、礼記などを読まるる際、その章句のうちに君や父の名と同じ文字があつても、之を避くる如き事をなさず、総て忌憚無く正読し、形式に囚はれて学問の根本義を曲ぐる如き事をせられなかつたものだとの意に解釈するのである。三島先生なぞも斯く解釈して居られる。私は学者で無いからこの二つの解釈のうち孰れが正当であるか之を明言し得ぬが、今仮りに普通に行はるる朱子集註の解釈によつて稽へて見れば、孔夫子が常に其弟子等に教へられたところは、当今の新らしい言語を以てすれば、智、情、意を善導するに絶えず心を注がれて居つたといふ事になるのだ。
 人間が物事を考へたり行つたりするに当つて、第一の動機となるものは情だ。「詩経」周南第一の序にも、「情中に動いて言に形はる」とある通りで、情が動いて茲に初めて人間は色々と考へたり、その考へた事を言行に発したりするやうになるもの故、人は何より先に情の発動を正しくするに努めねばならぬのだ。詩経は周の文王の徳を頌へた詩篇で、そのうちには「関々たる雎鳩は河の洲にあり、窈窕たる淑女は君子の好逑」なんかといふ句があつて、文王の人情を重んぜられた趣が能く顕れて居るが、それで毫も猥褻に流れるやうな処は無いのだから、人は日常「詩経」に親んで暮らすやうにすれば、自然と情の発動が善導されて人情を重んずる高尚な心情の人物にもなり得られる。
 私は人真似に過ぎぬが、十六七歳の頃より詩を作る稽古を始め、之には多少の興味を持つて居りもしたので、文久二年、恰度私が江戸へ出る前年、閣老安藤対馬守を坂下門外に要撃した攘夷党の一人で後捕はれて節に死した越智通桓といふ人の詩を読み、之を面白く思ひ、又その志に感激もしたから、同氏の遺した詩藻を集めて「春雲楼遺稿」と題する一巻の遺稿を編纂し、親しく序文を書いて之を印刷に附し知人の間に配布したりなんかしたほどだ。今日に成つて読んでみても、越智通桓の小伝を兼ねた其書の序文は相当に旨く書けてると自分ながら思ふが、海保漁村先生が大分添削して下されたものである。当時印刷の部数が甚だ少かつたので爾来手許に一冊も残つて居らなかつたところ、郷里に之を一冊所蔵して居る者があつて、此頃に至り私の手許へ送つてくれたので、或は興味もあらうかと思ひ、左に其の小伝を兼ねた序文を掲出する事に致す。
 詩は「志」を述べるのが元で、為に「詩」と称ばるるやうになつたとの事だが、其の最も古いのが「詩経」として今日に伝つてる周詩三百篇である。然し当時は単に歌謡に便なる字句の並べ方をしたに過ぎなかつたもので、格式の一定せらるるやうになつたのは唐の世からだが、支那では唐宋にかけて詩が全盛を極めたのである。かくして唐以来、詩には、長篇、律詩、絶句、五言、七言などの格式がチヤンと一定せらるるやうになつたが、かの有名な白楽天の「長恨歌」などは即ち長篇である。「長恨歌」は「漢皇色を重んじて傾国を思ふ」の句に始まり「此の恨綿々として絶くる期無し」の句を以て終つてるが、唐の玄宗皇帝が、寵姫楊貴妃に対する綿々の情を叙したものだ。
 楊貴妃はこの「長恨歌」によれば、一笑百媚生じ、六宮の粉黛為に顔色無しといふほどの美人になつてるが、玄宗皇帝は愛寵の余り何事にもこの貴妃の意を迎へ、遂に安禄山の我儘を為すに任せ、その結果安禄山の謀反となり、賊軍が関を越えて内地に押し寄せ来り、唐の社稷漸く危からんとするに及んでも、皇帝には猶ほ戦意なく、貴妃の愛に溺れ、妃及び妃の従祖兄に当る楊国忠などを従へて出奔し、陣を進めようとせられぬので、将士たちは甚く憤慨して怒り出し、蜀の桟道に於て先づ楊国忠等を誅し、それから玄宗皇帝に逼つて楊貴妃をも縊め殺してしまつたのである。為に玄宗は意を決して成都に亡命し、位を太子に伝へることになつたのだが、その辺の消息は、革命前に於ける露国皇帝の心情に頗る能く似て居る。
 露国のニコライ皇帝は皇后を独逸から迎へ居られ、而も皇后とは琴瑟も及ばざる御仲であらせられたものだから、何事にも皇后の意を迎へて進退を決し、露国民が独逸を敵として戦ひつつある間にも、ニコライ皇帝は独逸を視るに仇敵を以てせず、之と歓を通ずる如き態度に出で、露国の皇室は恰も独探の策源中心たる如き観を呈するに至つたので、遂に彼の第一次革命となつたのだが、唐代の支那は露国と国体が異つてたので、直に皇帝政治を廃して共和政治を実現する如き事情とならず、楊貴妃と其縁戚たる楊国忠の一派を殺したのみで玄宗皇帝に累を及ぼすまでの事はなかつたのである。
 さて「長恨歌」には楊貴妃が殺されてしまつてから玄宗皇帝が悶々の情切なるものある趣を叙し、粛宗皇帝の御世になつて安禄山の乱平らぎ、玄宗が行宮を置かれた蜀から都へ還つて来られる途すがら、曩に楊貴妃が殺された地を通過せらるるに当り催された感慨の情を述べ「君臣相顧みて悉く衣を霑す」の句によつて之を叙してるが、さう斯うするうちに楊貴妃の幽霊のやうなものが詩の中へ現れて来たりなんかして、その辺は戯曲の如くになつて居る。今日、博く行はれて居る「天長地久」の語は、「長恨歌」にある「天長く地久しくも時有つて尽く、此の恨綿々として絶くる期無し」の句から、出て来たものである。私は学者で無く、想像力も簡単であるから、自分で詩を作ると謂つても、迚も長篇なぞの作られさうな筈無く、僅に絶句を作るぐらゐのものだ。
 絶句は之を日本の歌に比べて謂へば「万葉集」などに載せられてある長歌に附いてる卅一文字の反歌のやうなもので、五言絶句にしても七言絶句にしても、起、承、転、合の四句より成り、「花が美しい」といふので初めの句を起せば「人が多く出る」といふやうな次の句で之を承け、それから「然し風が吹けば――」といふやうに次の句によつて趣向を転じ、最後の一句で全体を結ぶのだが、文字には其の音の如何によつて、平、上、去、入の別があり、総ての文字は平と仄との二つに分類せられ、詩には一定した平仄の並べ方がある事になつて居る。それから又押韻の法則といふものがあつて、起と承と合との三句の末字には同じ韻の文字を用ゐねばならぬのだ。かく平仄の並べ方に一定の法則があつたり韻を押まねば詩にならぬなぞいふ事になつてるのは、支那では、詩に調拍を付けて謡ふ習慣があるから之に便する為だ。日本では支那の如くに詩を謡はぬから、本来ならば平仄やら韻やらを喧しく彼是云ふ必要は無いのであるが、兎に角、詩を作るには平仄を揃へたり韻を押んだりせねばならぬことになつてるので、私も詩を学ぶ時には、第一に平仄の稽古から始めたのだ。一つ二つ私の作つた七言絶句を読者に御目に懸けよう。
官途幾歳費居諸。 解印今朝意転舒。
笑我杞憂難掃得。 献芹留奏万言書。
 これは、明治六年一篇の建白書を上つて大蔵省を辞し、官途から退いた時に賦した絶句である。それから、徳川慶喜公が大正二年薨去せられた時に作つた七言絶句にも斯んなのがある。
嘉遯韜光五十春。 英姿今日化霊神。
至誠果識天人合。 赫赫鴻名遍四隣。
 日本の詩人の中では梁川星巌は豪い者で、一詩一篇声に応じて成りその作るところ悉く古雅清奇、よく高趣の風骨を帯びて居るので、日本の李白を以て目せられたほどだが、私は不幸にしてまだ詩人として豪いと思つた人に、之まで遇つた事が無いのである。然し「国史略」を読んでから、次で「日本外史」を読むやうになるや、私は甚く山陽の学識、気概に感服してしまひ、「外史子曰」の評文なぞは殆どみな暗記して居つたほどだ。随つて山陽の詩を輯めた「山陽詩鈔」と題する詩篇を頗る愛読したものである。私の作る詩の趣に若し誰かに私淑した点があるとすれば、それは「山陽詩鈔」を愛誦した影響に外ならぬ。山陽は詩人として星巌よりは下位で、管茶山[菅茶山]の門に遊び、星巌の詩から学ぶ処も多かつたらしいが、その識見と学問とは実に非凡なものである。
 日本外史の評論は新井白石の「読史余論」を漢文に焼き直したものに過ぎぬなぞとの説も、昨今世間に無いでは無いが、一概に爾うとばかりも謂へぬのである。源平時代に筆を起して徳川十一代の将軍文恭院家斉公の時代に至り、前条にも申述べて置いた通り「武門の天下を平治する、是に至つて其の盛を極む」の句を以て筆を擱いてる一事に徴しても、山陽の胸中には、当時既に徳川幕府の末路が何んなものになるかといふことに就ての見当が、チヤンと付いて居つたものと思はれる。この識見は白石の「読史余論」を焼き直したものでは無いのである。全く山陽の識見が能く凡を抜き、古今の大勢を洞察することのできた賚で、山陽独自の創見であると謂はねばならぬのだ。
 又山陽の気概は能く其詩文のうちに顕れ、人を感激せしむること深く、為に維新の鴻業の如きも山陽の「日本外史」に動かされた者によつて大成されたと言はれて居るほどだが、その病むや猪飼敬所が山陽を訪れて来て、談偶〻南北朝孰れが正統であるかとの議論に及ぶや、敬所は北朝正統論を王張したので、山陽は之に反対して南朝正統論を主張し、「若し北朝を正統だといふ事にすれば、新田義貞や楠正成が乱臣賊子になつてしまふ、天下豈斯くの如き理あらんや」と、慷慨淋漓、目張り眉軒して、遂に南朝正統論を草し、之を「政記」のうちに入れたところなぞは、豪い気概であると謂はねばならぬ。近頃になつてからも一時南北朝の喧ましい事もあつたが、依然として南朝正統の説が動かすべからざるものになつてしまつてるのは、山陽に負ふ処が頗る多いのだ。私が山陽の詩を愛誦して之に私淑するに至つたのは、詩そのものよりも寧ろ山陽の高邁なる識見と痛烈なる気概とに動かされた結果である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)