デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一

3. 大川兄弟と佐々木一家

おおかわきょうだいとささきいっか

(37)-3

 兄弟和合して互に力となりもし又なられもして居る実例は、私の知つてる狭い範囲でも決して少く無い。目下中央製紙会社の専務取締役を初めとし、東洋硝子会社の取締役、其他各種の会社に関係して居る大川平三郎は私の婿で、四女のてるが其妻になつてるのだが、その弟は之も東洋硝子会社の社長を初めとし各種の会社に関係して居る田中栄八郎である。この両人は性格が全然違つてると謂つても可いほどだが、至つて仲睦しく、何事にも両人が話し合つて事を決するやうにして居る。第一銀行の佐々木勇之助兄弟も仲々睦しい兄弟仲の一例で、勇之助の兄は佐々木慎思郎だが、この兄弟も何かに付けて相談し、諸事運んで行く様子だ。それから佐々木勇之助には明治十五年生れの長男謙一郎と、明治二十年生れの次男修二郎と、明治二十三年生れの三男和三郎との三人の男の子がある。長男の謙一郎は法学士で大蔵省に勤め官吏となり、次男の修二郎は之も法学士で第一銀行に勤務して居る。三男の和三郎は工学士で大阪の汽車製造会社の技師だ。兄弟三人それぞれ異つた方向を取り異つた職業に就き、一人は官吏、一人は商人、一人は技師といふやうになつてるが、三人の間には些かの蟠りも無く至極仲よく暮らして居る。斯く異つた職業に就てるほどだから三人の性格は勿論異つてるのだらうが、各自の欲する処に従つて特色を発揮し、互に自分の型に他の者を嵌めようなぞとせぬので、其間が旨く行つてるのだ。
 諸井恒平の兄弟なぞも亦仲の良い一例だ。諸井は埼玉県のもので、恒平の父泉衛は私と従兄弟の間柄であつたから、諸井恒平兄弟は俗に謂ふ私の復従弟になるのだが、私の方が恒平兄弟よりも年長の関係から、私も諸井一家の事には色々と相談に与かつて居る。それが為、恒平兄弟の間柄を能く知つてるが、一番の兄が恒平で、之が先代の次男である。東京商業会議所の議員で日本煉瓦製造会社の専務取締役を勤め、其他各種の会社に関係し、次が三男の時三郎で、之は手形のブローカーを業とし、謂はば仲買人だ。其次が四男の四郎で、東亜製粉会社の専務取締役以下各種の会社に関係し、是又実業家である。それから次が五男の六郎で、全く異つた方向を取つて外交官となり、昨今は布哇の総領事か何んかを勤めて居る筈だ。この諸井兄弟四人が又珍らしい仲の良い間柄で、外間から見ても羨ましいほどなのは、互に慾張らず互に侵さず、よく友情を重んじて行くからで、会社の重役、仲買人、外交官と謂つたやうに職業が異つても円滑に親睦和合して暮らせるのだ。私の知つてる人々のうちでは、この諸井兄弟、それから佐々木勇之助の子の兄弟などが最も睦しい兄弟の実例であらうと思ふのである。
 昨今船成金で評判の高い神戸の内田信也氏も兄弟四人で、同氏には三人の兄がある。長兄が内田誠太郎、その次の兄が窪田四郎、その次が石野卓爾で、内田信也氏は四人兄弟のうちの末子だと聞いて居る。信也氏は昨今船成金といふ事で豪い成功者になつてるが、決して之が為に兄たちを軽んずるやうな軽薄な真似をせず、よく友情を披瀝して居るので、四人とも至つて其仲睦しく、三人の兄はみな夫々内田系の会社に関係して同心協力、以て事業の発展を計つてるのである。信也氏の成功は同氏の力によること勿論だらうが、四人の兄弟が協力一致に因る処も与つて多からうと思ふのだ。

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デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)