デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一

6. 「詩経」に顕るる情趣

しきょうにあらわるるじょうしゅ

(37)-6

子所雅言。詩。書。執礼。皆雅言也。【述而第七】
(子、雅に言ふ所は、詩、書、執礼、みな雅に言ふなり。)
 茲に掲げた章句の解釈に就ては、学者の間に意見が二た通りある。朱子集註に拠る一般の解釈は、孔夫子は口を開かるる毎に必ず詩経、書経及び礼記に就て談り、詩経によつては人情を理め、書経によつて政治の根本義を覚り、礼記によつて礼を実地に執り行ふ道を学べよと弟子達に向つて教へらるるを例としたといふにある。然し、物徂徠や猪飼敬所なぞは斯く解釈せずして、専ら古義に則り、孔夫子は詩経、書経、礼記などを読まるる際、その章句のうちに君や父の名と同じ文字があつても、之を避くる如き事をなさず、総て忌憚無く正読し、形式に囚はれて学問の根本義を曲ぐる如き事をせられなかつたものだとの意に解釈するのである。三島先生なぞも斯く解釈して居られる。私は学者で無いからこの二つの解釈のうち孰れが正当であるか之を明言し得ぬが、今仮りに普通に行はるる朱子集註の解釈によつて稽へて見れば、孔夫子が常に其弟子等に教へられたところは、当今の新らしい言語を以てすれば、智、情、意を善導するに絶えず心を注がれて居つたといふ事になるのだ。
 人間が物事を考へたり行つたりするに当つて、第一の動機となるものは情だ。「詩経」周南第一の序にも、「情中に動いて言に形はる」とある通りで、情が動いて茲に初めて人間は色々と考へたり、その考へた事を言行に発したりするやうになるもの故、人は何より先に情の発動を正しくするに努めねばならぬのだ。詩経は周の文王の徳を頌へた詩篇で、そのうちには「関々たる雎鳩は河の洲にあり、窈窕たる淑女は君子の好逑」なんかといふ句があつて、文王の人情を重んぜられた趣が能く顕れて居るが、それで毫も猥褻に流れるやうな処は無いのだから、人は日常「詩経」に親んで暮らすやうにすれば、自然と情の発動が善導されて人情を重んずる高尚な心情の人物にもなり得られる。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)