デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一

9. 私は絶句だけ作る

わたしはぜっくだけつくる

(37)-9

 さて「長恨歌」には楊貴妃が殺されてしまつてから玄宗皇帝が悶々の情切なるものある趣を叙し、粛宗皇帝の御世になつて安禄山の乱平らぎ、玄宗が行宮を置かれた蜀から都へ還つて来られる途すがら、曩に楊貴妃が殺された地を通過せらるるに当り催された感慨の情を述べ「君臣相顧みて悉く衣を霑す」の句によつて之を叙してるが、さう斯うするうちに楊貴妃の幽霊のやうなものが詩の中へ現れて来たりなんかして、その辺は戯曲の如くになつて居る。今日、博く行はれて居る「天長地久」の語は、「長恨歌」にある「天長く地久しくも時有つて尽く、此の恨綿々として絶くる期無し」の句から、出て来たものである。私は学者で無く、想像力も簡単であるから、自分で詩を作ると謂つても、迚も長篇なぞの作られさうな筈無く、僅に絶句を作るぐらゐのものだ。
 絶句は之を日本の歌に比べて謂へば「万葉集」などに載せられてある長歌に附いてる卅一文字の反歌のやうなもので、五言絶句にしても七言絶句にしても、起、承、転、合の四句より成り、「花が美しい」といふので初めの句を起せば「人が多く出る」といふやうな次の句で之を承け、それから「然し風が吹けば――」といふやうに次の句によつて趣向を転じ、最後の一句で全体を結ぶのだが、文字には其の音の如何によつて、平、上、去、入の別があり、総ての文字は平と仄との二つに分類せられ、詩には一定した平仄の並べ方がある事になつて居る。それから又押韻の法則といふものがあつて、起と承と合との三句の末字には同じ韻の文字を用ゐねばならぬのだ。かく平仄の並べ方に一定の法則があつたり韻を押まねば詩にならぬなぞいふ事になつてるのは、支那では、詩に調拍を付けて謡ふ習慣があるから之に便する為だ。日本では支那の如くに詩を謡はぬから、本来ならば平仄やら韻やらを喧しく彼是云ふ必要は無いのであるが、兎に角、詩を作るには平仄を揃へたり韻を押んだりせねばならぬことになつてるので、私も詩を学ぶ時には、第一に平仄の稽古から始めたのだ。一つ二つ私の作つた七言絶句を読者に御目に懸けよう。
官途幾歳費居諸。 解印今朝意転舒。
笑我杞憂難掃得。 献芹留奏万言書。
 これは、明治六年一篇の建白書を上つて大蔵省を辞し、官途から退いた時に賦した絶句である。それから、徳川慶喜公が大正二年薨去せられた時に作つた七言絶句にも斯んなのがある。
嘉遯韜光五十春。 英姿今日化霊神。
至誠果識天人合。 赫赫鴻名遍四隣。

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キーワード
渋沢栄一, 絶句, 作る
デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)