1. 頼山陽の頓智即妙
らいさんようのとんちそくみょう
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桜痴居士の父とか従兄とかであつたさうだが頼山陽の門人で、或る日、山陽先生の宅に門人共が多数寄り集つてる処に一座し、山陽先生を囲んで四方山の談話に耽つてる最中、談偶〻色んなものの起原に及び、詩の起原は何にあるとか、絵の起原は斯うであるとかいふ事になつた。その時桜痴居士の父とか従兄とかいふ男は、「和歌の起原は論語にある」と言ひ出したのである。一座の者大に怪み、「それは又何故か」と問ひ詰めると、その男澄したもので、「論語顔淵の篇に――司馬牛憂へて曰く、人はみな兄弟あれど我れ独り亡し――とあるだらう。まさに三十一音になる。これが和歌の起原だ」と弁じ終つたので一座みな其頓智の面白きに興を催して居ると、傍にあつた山陽先生は「そんなら、俳諧の起原は何にあるか知つてるか」と其男に問ひ返した。その男も、和歌の起原に就てだけは面白可笑しく述べ立てたが、俳諧の起原に就ては未だ考へて居らなかつたので「知らぬ」と答へると、「そんなら教へてやらうが、俳諧の起原は左伝にある。左伝の開巻に――夏五月鄭伯段に鄢に克つ――、まさに十七文字だらう。これが俳諧の起原である」と、山陽は元来頗る機智に富んだ才子であつたから、旨く附会して話したのである。この鄭伯と段とも兄弟であることは、前条に談話したうちにも一寸述べて置いた通りだが、如何にも「夏五月鄭伯段に鄢に克つ」の一句は、十七文字なる上に「夏五月」と季まで詠み込んであるから、まさしく俳諧の体を具へたものだ。この一つの逸話によつても、如何に頼山陽が才に富んだ人であつたか知り得られる。論語の本文とは全く無関係だが、一寸想ひ出したから面白い逸話だと思つて談話して置く。
- デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)