デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一

1. 頼山陽の頓智即妙

らいさんようのとんちそくみょう

(37)-1

 談話は余り剥き出しにせず、夫れと無く要領を得るには多少の機智を要するが、其間に一種名状すべからざる趣味を発見するに至るもので、角力季節の頃に幾ら角力の話を持ちかけても其話に乗つて来ぬ如き人は、問はずして角力に興味を持たぬ人である事が知れる。子貢が孔夫子に対つて伯夷叔斉兄弟の話を持ちかけ、之によつて孔夫子が衛の王室に於ける父子の戦争に対し、如何なる態度に出られるかを探つたのは、誠に機智に富んだ行方で、話も斯んな風に持ちかけてもらふと、答へる方も気詰りがせず、誠に楽である。序に一寸兄弟関係の事に縁があるから頼山陽の面白い逸話を一つ談話して置くが、これは私が曾つて福地桜痴居士から親しく聞知した処のものだ。
 桜痴居士の父とか従兄とかであつたさうだが頼山陽の門人で、或る日、山陽先生の宅に門人共が多数寄り集つてる処に一座し、山陽先生を囲んで四方山の談話に耽つてる最中、談偶〻色んなものの起原に及び、詩の起原は何にあるとか、絵の起原は斯うであるとかいふ事になつた。その時桜痴居士の父とか従兄とかいふ男は、「和歌の起原は論語にある」と言ひ出したのである。一座の者大に怪み、「それは又何故か」と問ひ詰めると、その男澄したもので、「論語顔淵の篇に――司馬牛憂へて曰く、人はみな兄弟あれど我れ独り亡し――とあるだらう。まさに三十一音になる。これが和歌の起原だ」と弁じ終つたので一座みな其頓智の面白きに興を催して居ると、傍にあつた山陽先生は「そんなら、俳諧の起原は何にあるか知つてるか」と其男に問ひ返した。その男も、和歌の起原に就てだけは面白可笑しく述べ立てたが、俳諧の起原に就ては未だ考へて居らなかつたので「知らぬ」と答へると、「そんなら教へてやらうが、俳諧の起原は左伝にある。左伝の開巻に――夏五月鄭伯段に鄢に克つ――、まさに十七文字だらう。これが俳諧の起原である」と、山陽は元来頗る機智に富んだ才子であつたから、旨く附会して話したのである。この鄭伯と段とも兄弟であることは、前条に談話したうちにも一寸述べて置いた通りだが、如何にも「夏五月鄭伯段に鄢に克つ」の一句は、十七文字なる上に「夏五月」と季まで詠み込んであるから、まさしく俳諧の体を具へたものだ。この一つの逸話によつても、如何に頼山陽が才に富んだ人であつたか知り得られる。論語の本文とは全く無関係だが、一寸想ひ出したから面白い逸話だと思つて談話して置く。

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デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)