デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一

8. 「長恨歌」と露国の皇室

ちょうこんかとろこくのこうしつ

(37)-8

 詩は「志」を述べるのが元で、為に「詩」と称ばるるやうになつたとの事だが、其の最も古いのが「詩経」として今日に伝つてる周詩三百篇である。然し当時は単に歌謡に便なる字句の並べ方をしたに過ぎなかつたもので、格式の一定せらるるやうになつたのは唐の世からだが、支那では唐宋にかけて詩が全盛を極めたのである。かくして唐以来、詩には、長篇、律詩、絶句、五言、七言などの格式がチヤンと一定せらるるやうになつたが、かの有名な白楽天の「長恨歌」などは即ち長篇である。「長恨歌」は「漢皇色を重んじて傾国を思ふ」の句に始まり「此の恨綿々として絶くる期無し」の句を以て終つてるが、唐の玄宗皇帝が、寵姫楊貴妃に対する綿々の情を叙したものだ。
 楊貴妃はこの「長恨歌」によれば、一笑百媚生じ、六宮の粉黛為に顔色無しといふほどの美人になつてるが、玄宗皇帝は愛寵の余り何事にもこの貴妃の意を迎へ、遂に安禄山の我儘を為すに任せ、その結果安禄山の謀反となり、賊軍が関を越えて内地に押し寄せ来り、唐の社稷漸く危からんとするに及んでも、皇帝には猶ほ戦意なく、貴妃の愛に溺れ、妃及び妃の従祖兄に当る楊国忠などを従へて出奔し、陣を進めようとせられぬので、将士たちは甚く憤慨して怒り出し、蜀の桟道に於て先づ楊国忠等を誅し、それから玄宗皇帝に逼つて楊貴妃をも縊め殺してしまつたのである。為に玄宗は意を決して成都に亡命し、位を太子に伝へることになつたのだが、その辺の消息は、革命前に於ける露国皇帝の心情に頗る能く似て居る。
 露国のニコライ皇帝は皇后を独逸から迎へ居られ、而も皇后とは琴瑟も及ばざる御仲であらせられたものだから、何事にも皇后の意を迎へて進退を決し、露国民が独逸を敵として戦ひつつある間にも、ニコライ皇帝は独逸を視るに仇敵を以てせず、之と歓を通ずる如き態度に出で、露国の皇室は恰も独探の策源中心たる如き観を呈するに至つたので、遂に彼の第一次革命となつたのだが、唐代の支那は露国と国体が異つてたので、直に皇帝政治を廃して共和政治を実現する如き事情とならず、楊貴妃と其縁戚たる楊国忠の一派を殺したのみで玄宗皇帝に累を及ぼすまでの事はなかつたのである。

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キーワード
長恨歌, 露国, 皇室
デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)