10. 「山陽詩鈔」を愛誦す
さんようししょうをあいしょうす
(37)-10
日本外史の評論は新井白石の「読史余論」を漢文に焼き直したものに過ぎぬなぞとの説も、昨今世間に無いでは無いが、一概に爾うとばかりも謂へぬのである。源平時代に筆を起して徳川十一代の将軍文恭院家斉公の時代に至り、前条にも申述べて置いた通り「武門の天下を平治する、是に至つて其の盛を極む」の句を以て筆を擱いてる一事に徴しても、山陽の胸中には、当時既に徳川幕府の末路が何んなものになるかといふことに就ての見当が、チヤンと付いて居つたものと思はれる。この識見は白石の「読史余論」を焼き直したものでは無いのである。全く山陽の識見が能く凡を抜き、古今の大勢を洞察することのできた賚で、山陽独自の創見であると謂はねばならぬのだ。
又山陽の気概は能く其詩文のうちに顕れ、人を感激せしむること深く、為に維新の鴻業の如きも山陽の「日本外史」に動かされた者によつて大成されたと言はれて居るほどだが、その病むや猪飼敬所が山陽を訪れて来て、談偶〻南北朝孰れが正統であるかとの議論に及ぶや、敬所は北朝正統論を王張したので、山陽は之に反対して南朝正統論を主張し、「若し北朝を正統だといふ事にすれば、新田義貞や楠正成が乱臣賊子になつてしまふ、天下豈斯くの如き理あらんや」と、慷慨淋漓、目張り眉軒して、遂に南朝正統論を草し、之を「政記」のうちに入れたところなぞは、豪い気概であると謂はねばならぬ。近頃になつてからも一時南北朝の喧ましい事もあつたが、依然として南朝正統の説が動かすべからざるものになつてしまつてるのは、山陽に負ふ処が頗る多いのだ。私が山陽の詩を愛誦して之に私淑するに至つたのは、詩そのものよりも寧ろ山陽の高邁なる識見と痛烈なる気概とに動かされた結果である。
- デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)