デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一

4. 渋沢元治と其経歴

しぶさわもとじとそのけいれき

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 私の埼玉県血洗島の生家は、これまでも屡〻申述べて置いた如く、先考の後を私の妹に婿を迎へて継がせることにしたのであるが、妹は私よりも一ト廻り年下で、明治四年十一月父の亡くなつた時にはまだ十八九歳ばかりの乙女であつたのだ。私が父危篤の急報に接して駆付けた際には幸に父も小康を得て、私の行くまで人事不省であつたのがうまく二日ばかり醒めてくれたので、其間に相続人のことに就て父の意見を尋ねると、「何うでも汝の思ふやうにせよ」との命であつたから、前条にも申したことのあるやうに、父の歿後須永才三郎を迎へて妹の婿とし、之に生家の家系を継がせることにしたのだ。才三郎は私の生家へ入籍してから名を市郎と改めたが、妹と市郎との間には元治と治太郎との二人の男の子がある。元治は先にも一寸談話した如く、工学博士で目下逓信省に奉職して居る。それで同人も弟の治太郎に家を譲り、血洗島に於ける私の生家は、二人のうちの弟になる治太郎が継いで現に其主人となつてるのだが、父の市郎は初め長男の元治に跡目相続をさせようとし、元治が成長して出京し東京で勉学するやうになつてからは、農科大学に入学させんとしたものだ。ところが当人は農科は自分の性に合はぬからとて肯かず、是非工科を修業してみたいといふので、工科大学に入り、電気工学を修めることになつたのである。父の市郎は、「元治は什麽も剛情で困る」なぞと言つてたものだが、古河市兵衛氏は元治の何処を見込んだものか、「あの子には見込があるから、是非自分の処へ寄こしてもらひたい。自分は渋沢と一緒に協同して何か営つてみたいと思つてる矢先、恰度好都合だから、あの子と一緒に仕事をするやうにしたい」との事であつたのである。
 古河と私とは、その以前にも既に一緒になつて多少の事業をしたことのあるほど故、古河に爾んな意があるならばそれも好からうといふので、元治を古河へ托することとし、明治三十三年東京工科大学電気学科を卒業し、一年志願兵を済ましてから、元治は古河の会社へ這入り、三十五年一月、足尾銅山の技師になつたのである。然し四月には独逸に渡つて伯林のシーメンス・ハルスケ社に入社して工場実習を遂げ、それから翌年瑞西チウリツヒの工科学堂に学び、帰途米国のゼネラル・エレクトリツク社で半年ばかり見学し、三十九年二月に帰京したのである。

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渋沢元治, 経歴
デジタル版「実験論語処世談」(37) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.270-278
底本の記事タイトル:二六五 竜門雑誌 第三六三号 大正七年八月 : 実験論語処世談(第卅七回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第363号(竜門社, 1918.08)
初出誌:『実業之世界』第15巻第8,9号(実業之世界社, 1918.04.15,05.01)