デジタル版「実験論語処世談」(59) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.489-492

子路使子羔為費宰。子曰。賊夫人之子。子路曰。有民人焉。有社稷焉。何必読書。然後為学。子曰。是故悪夫佞者。【先進第十一】
(子路子羔をして費の宰たらしむ。子曰く、夫の人の子を賊《そこな》ふと。子路曰く。民人有り。社稷有り。何ぞ必ずしも書を読んで然る後に学べりと為さん。子曰く。是の故に夫の佞者を悪む。)
 此の章句は孔子が所謂佞弁を戒められたのであつて、子路が兼ねて季氏に仕へて居つたので、同門の子羔(高柴)を推薦して季氏の領有の費といふ地方の役人にした。日本で言へば昔の郡奉行といふやうな役である。孔子は之れを聞いて、子路の子羔を推薦したのは彼をして又学ぶ能はざるに至らしむるもので、其人を害ふものであると言はれた。蓋し子羔は「柴也愚」と評せられた人で、変通の才に乏しく重厚に過ぐる性質であつたから此の様な繁劇な事務に当る事は、子羔には少しく荷が重過ぎる。加ふるに為政の術にも通ぜざる処があるから其の失敗あらんことを恐れ、夫の人の子を賊ふと咎められたのである。之れを聞いた子路は曰く、邑宰となれば民人あつて之れを治め、社稷があつて之れを祭るを職とするのである。されば之れ実地についての活学問である。必ずしも書を読む許りが能ではない。一方に実務に当り一面に於て学んでこそ、始めて実学実才は成るのである。然るに夫子が子羔を害ふと言はるるは聊か当らないやうであると弁解した。孔子は之れを聞いて、斯かる理窟を作つて自分の非を掩はんとする者があるから、私は平常佞弁の者を憎むのである、と言はれたのである。
 第三者からすれば、子路の言ふ処も一応は理窟があるやうに思はれる。然し子路が初め子羔を推挙した時には「何必読書然後為学」といふ事は思ひ及ばなかつたのであるが、孔子に叱られて、自分の非を改めようとはせず、却つて理窟を考へ出して弁解した。孔子は之れを能く見抜いて居られたので、佞弁の者を憎むといつて深く之れを誡められたのである。此のやうな性格の人は今日も仲々多い。何か自分のした事に過失があつて忠告をされた時に、アー之れは私の過ちであつたと、虚心坦懐に其の非を改めるとよいけれども、イヤ君はさう言ふけれども、之れは斯く斯くの理由であるから俺のやつた事は決して間違ひではないんだと理窟を捏ねて自分の非を飾り立てようとする。所謂弁舌によつて誤間化さうとする、かういふ風の人が今日頗る多いといふ事は誠に遺憾であると思ふ。
子路。曾晳。冉有。公西華。侍座[坐]。子曰。以吾一日長乎爾。毋吾以也。居則曰。不吾知也。如或知爾。則何以哉。子路率爾而対曰。千乗之国。摂乎大国之間。加之以師旅。因之以饑饉。由也為之。比及三年。可使有勇。且知方也。夫子哂之。
求爾何如。対曰。方六七十。如五六十。求也為之。比及三年。可使足民。如其礼楽。以俟君子。
赤爾何如。対曰。非曰能之。願学焉。宗廟之事。如会同。瑞章甫。願為小相焉。
点爾何如。鼓瑟希。鏗爾。舎瑟而作。対曰。異乎三子者之撰。子曰何傷乎。亦各言其志也。曰。莫春者春服既成。冠者五六人。童子六七人。浴乎沂。風乎舞雩。詠而帰。夫子喟然歎曰。吾与点也。
三子者出。曾晳後。曾晳曰。夫三子者之言。何如。子曰。亦各言其志也已矣。曰。夫子何哂由也。曰。為国以礼。其言不譲。是故哂之唯求則非邦也与。安見方六七十。如五六十。而非邦也者。唯赤則非邦也与。宗廟会同。非諸侯而何。赤也為之小。孰能為之大。【先進第十一】

(子路。曾晳、冉有、公西華、侍坐す。子曰く。吾が一日爾より長ぜるを以て、吾を以てする毋れ。居には則ち曰く、吾を知らずと。如し爾を知るあらば、則ち何を以てせんや。
子路率爾として対へて曰く。千乗の国、大国の間に摂まり、之れに加ふるに、師旅を以てし、之れに囚るに饑饉を以てす、由や之れが為め、三年に及ぶころ、勇有りて且つ方を知らしむ可しと、夫子之れを哂ふ。
求爾は如何。対へて曰く。方六七十、如《もし》くは五六十。求や之れを為めて、三年に及ぶ比、民を足ら使《し》む可し。其の礼楽の如きは、以て君子を俟たん。
赤爾は如何。対へて曰く。之を能くすと曰ふに非ず、願くは焉を学ばん。宗廟の事如くは会同、端、章甫して、願くは小相と為らん。
点爾は如何。瑟を鼓く事希む。鏗爾として瑟を舎きて作ち、対へて曰く。三子者の撰に異なれり。子曰。何ぞ傷まん。亦各〻其の志を言ふなり。曰く。暮春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人沂に浴し、舞雩に風じ、詠じて帰らん。夫子喟然として嘆じて曰く吾は点に与せん。
三子者出づ。曾晳後る。曾晳曰く。夫の三子者の言は如何と。子曰く。亦各々其の志を言ふのみ。曰く。夫子何ぞ由を哂ふや。曰く。国を為むるに礼を以てす。其言譲らず。是の故に之を哂ふ。唯求は則ち邦に非ざるか。安んぞ方六七十、若くは五六十にして邦に非ざる者を見ん。唯赤は則ち邦に非ざるか。宗廟会同、諸侯に非ずして何ぞ。赤や之が小を為さば、孰れか能く之れが大を為さん。)
 此の章は孔子が其の門人、子路、曾晳、冉有、公西華の四人が側に居つた際に、各人にその志を述べさせ、且つ後に之れを評されたのであるが、孔子は此の四人を顧みて言ふには、「私は御前等より一日でも年が長じて居るから、私を遠慮して言はうと思ふ事を憚かつたりしてはなりませぬぞ、さて御前達は常に家に居つて、吾才は世に用ひらるるに足るけれども、吾を知る者がないと言はれるが、今若し明君があつてお前達の才を能く知つて用ひて呉れるとしたならば、如何なる用をなさらうとするか、定めしそれぞれ抱負があるだらうから、私の為に其の希望を述べて見なさい」と問うた。之れが此の章の第一段である。これから四子が各〻其の思ふ事を答へた。
 孔子の側に居つた四人の門弟の内で、子路は最も年長者であつて所謂首席である。加ふるに其の人と為りが謙譲の風格を備へて居らぬ人であつたから、孔子の質問に対し膝を進め得意然として答へて曰ふには、若し茲に或る小さい国が大国の間に挟つて居つて常に脅威せられるのみならず、大国は屡〻軍兵を指し向けて征服しようとして居り、加ふるに饑饉があつて国民の糧食が足らず、内外困難を極めて居るといふ難局であつても、私が此国に用ひられて政治を司る事になれば、三年の後には其の民をして勇を好み、義に向ふ事を知らしめるやうにして見せますと言つた。即ち内外の危難を悉く除く事が出来ると言つたのである。孔子は之れを聞いて唯微笑して何とも言はれなかつた。
 次に孔子は冉有に向ひ、お前の志はどうであるかと促されたので、冉有は四方六七十里、或は五六十里の小国があつて、私が其を治めるならば、三年も経つ頃には民を富ましめて衣食住に事欠かぬやうにする事が出来ようと思ひます。私の出来るのは只此の程度であつて、礼楽を以て民を教化するが如きは、私の能くする所でありませぬから、他の賢者を待つて行ふ可きでありませうと答へた。冉有は元来謙譲な人であつたが、子路が大言して孔子に笑はれたのを見たので、一層謙遜して斯く言つたのであつた。
 孔子は更に公西華の志を問うた。公西華は平生礼楽の事に志して居つたのであるが、冉有が礼楽の如きは君子を俟つと言つた話なので謙遜して、私は礼楽の事を能くすると申すのではありませぬが、唯之れを学ばうと思ふのであります。そして出来るならば、祭祀のことや或は諸侯の会同のある際などは、習ひ覚えた礼楽を用ゐる為めに小相となつて君侯の役に立てたいと願つて居りますと答へた。
 最後に孔子は曾晳に向つて其の意見を尋ねた。年齢や席順から言へば子路の次ぎに曾晳が言ふべき処であつたけれども、瑟を弾いて居つたので最後に問はれたのである。処が曾晳は瑟の手をやめて之れを傍らに置き、座を起つて答へて曰ふには、私の志は三人の方々が述べられたのとは大に異つて居りますと躊躇してゐる。それで孔子は、異つて居つても何も憂ふるに足らぬ。唯各〻が其の志を述べるのではないかと重ねて言はれたので、さらばと曾晳の言ふには、頃は春の末つ方新らしい春の服装も出来身軽になり、大人五六人、少年六七人を伴ひて郊外に散歩し、温泉に浴し、又は樹蔭に涼みて一日を遊び暮らし、共に詠じて先生の門に帰つたならば定めて愉快だらうと思ひます。之れが私の望む処でありますと答へた。蓋し曾晳の胸中には悠然として徳を養ひ、国に道あれば進み、道なければ退き、其の力を小事に用ひたくないといふ風があつた。孔子は之れを聞いて喟然として歎じて、吾も亦曾晳の志に等しいと言はれたのである。
 子路、冉有、公西華の三人は間もなく辞去して独り曾晳が残つたので、孔子に向つて彼の三人の言葉は如何で御座いますかと聞いた。処が孔子は単に各〻其の志を述べたまでの事だと答へられたので、それでは何故子路の言を笑はれたのですかと重ねて聞いた。孔子之に答へて、国を治むるには礼が真先きに出るもの、而して礼は譲ることを本旨とする。然るに子路は其の言葉に謙譲がない。それで笑つたのだと言はれた。処が曾晳は単に其の言葉に謙がないのを笑はれた迄で、邦を以て自ら任じたるを笑はれたので無い事と誤解して、冉求も小さくこそあれ矢張り邦を治むる事では御座いませぬか、然るに何故に御笑ひなさならなかつたと反問した。孔子更に答へて、千乗の国も邦である。四方六七十里の小なる邦も邦で無いとは言はぬ。されば国を治むるを以て任じたのを笑つたのではない。子路が言葉の譲らぬのを笑つたのだと言はれた。然るに曾晳はまだ孔子の意を解せぬと見えて、公西華の申す事も亦国の事ではありませぬか、然るに先生は何故に之れを笑ひ給はぬのですかと聞いた。孔子は「宗廟、会同は諸侯の為すべきこと、公西華は之れが小相になりたいといつたが、彼の才を以て小相になる以上は誰か其の上に立つて大相とならうぞ。然れば公西華の任ずる事も同じく邦を治むる事になるけれども、私は唯、子路が言葉の譲らぬを笑つたまでである。此点を間違つてはなりませぬ」と懇篤に訓へられた。以上が此の章の大意である。
 之れについて、曾て福地源一郎氏が「春三月頃、春衣が出来て、冠者や童子でなく、芸者や太鼓持でも連れて悠々と遊びたい」とシヤレた事を言はれたのを思ひ出す。此等に就ては特別に現代に当て嵌めて申す程の事もないが、此の講義の中に、吾々の教訓となる事が尠くない。能く味ふ可べ[可き]である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.489-492
底本の記事タイトル:三三九 竜門雑誌 第四一二号 大正一一年九月 : 実験論語処世談(第五十七《(九)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第412号(竜門社, 1922.09)
初出誌:『実業之世界』第19巻第3号(実業之世界社, 1922.03)