デジタル版「実験論語処世談」(59) / 渋沢栄一
4. 孔子の謙譲徳を説く
こうしのけんじょうとくをとく
(59)-4
子路、冉有、公西華の三人は間もなく辞去して独り曾晳が残つたので、孔子に向つて彼の三人の言葉は如何で御座いますかと聞いた。処が孔子は単に各〻其の志を述べたまでの事だと答へられたので、それでは何故子路の言を笑はれたのですかと重ねて聞いた。孔子之に答へて、国を治むるには礼が真先きに出るもの、而して礼は譲ることを本旨とする。然るに子路は其の言葉に謙譲がない。それで笑つたのだと言はれた。処が曾晳は単に其の言葉に謙がないのを笑はれた迄で、邦を以て自ら任じたるを笑はれたので無い事と誤解して、冉求も小さくこそあれ矢張り邦を治むる事では御座いませぬか、然るに何故に御笑ひなさならなかつたと反問した。孔子更に答へて、千乗の国も邦である。四方六七十里の小なる邦も邦で無いとは言はぬ。されば国を治むるを以て任じたのを笑つたのではない。子路が言葉の譲らぬのを笑つたのだと言はれた。然るに曾晳はまだ孔子の意を解せぬと見えて、公西華の申す事も亦国の事ではありませぬか、然るに先生は何故に之れを笑ひ給はぬのですかと聞いた。孔子は「宗廟、会同は諸侯の為すべきこと、公西華は之れが小相になりたいといつたが、彼の才を以て小相になる以上は誰か其の上に立つて大相とならうぞ。然れば公西華の任ずる事も同じく邦を治むる事になるけれども、私は唯、子路が言葉の譲らぬを笑つたまでである。此点を間違つてはなりませぬ」と懇篤に訓へられた。以上が此の章の大意である。
之れについて、曾て福地源一郎氏が「春三月頃、春衣が出来て、冠者や童子でなく、芸者や太鼓持でも連れて悠々と遊びたい」とシヤレた事を言はれたのを思ひ出す。此等に就ては特別に現代に当て嵌めて申す程の事もないが、此の講義の中に、吾々の教訓となる事が尠くない。能く味ふ可べ[可き]である。
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- デジタル版「実験論語処世談」(59) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.489-492
底本の記事タイトル:三三九 竜門雑誌 第四一二号 大正一一年九月 : 実験論語処世談(第五十七《(九)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第412号(竜門社, 1922.09)
初出誌:『実業之世界』第19巻第3号(実業之世界社, 1922.03)