デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592

子曰。君子和而不同。小人同而不和。【子路第十三】
(子曰く。君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。)
 本章は、人と交るに和同の別を得なければならぬことを説いたもので、短いけれども剴切なる章句であるといふべきである。
 君子は人と交るに能く調和して相戻るやうなことはないけれども、衆と共に附和雷同するやうなことはない。小人は之れに反して、衆と共に雷同することはあるけれども、相調和することはないのである。
 何となれば、君子は自己の意見を立派に有つて居る。即ち一見識を有つて居るので、多数の人が多くある事に賛成することがあつても、自己の意見に合はなければ、勝手に之れに賛成することはないのである。けれども、人としては社会に生存して居る以上は、自己の意見のみを行ふことは出来ない。故にある点までは相調和して、共同一致の実を現はす必要がある。
 処が小人は附和雷同するので、人を相手として騒ぐことになる。この雷同心なるものは、調和心と同じく多数一致することであるが、実は似て非なるものである。即ち、調和は義の為、雷同心は利の為にする。故にある時は多数と一致することがあつても、直ちにさうでなくなることがある。
 そのやうな例の甚しきものとしては、電車にぶら下る人が多いので知られる。即ちある人が電車にぶら下つて居ると、その危険であるとことも忘れて、吾も吾もと人の真似をする。さうするとこの状態を見て更にぶら下るものが多くなるのである。
 孔子の時代に於ても、このやうな状態であつたが、今も矢張りその通りで、あの人がかうして居るから私もかうすると云ふ人は随分多いのである。この短い章句の中に能く人間の弱点を道破されたと云ふのは、実に敬服に値するものである。
子貢問曰。郷人皆好之。何如。子曰。未可也。郷人皆悪之。何如。子曰。未可也。不如郷人之善者好之。其不善者悪之。【子路第十三】
(子貢問うて曰く。郷人皆な之れ好む、如何。子曰く、未だ可ならず。郷人皆な之れを悪む、何如。子曰く、未だ可ならず。郷人の善者は之れを好み、其の不善者は之れを悪むに如かず。)
 本章は輿論は必ずしも正しいものでないことを述べたものである。
 子貢、孔子に問うて、一郷の人が皆その人となりを愛好したならばどうであらうか。孔子は之れに応へ、如何に一郷の人が皆愛好したからとてそれでよいものでない。然らば一郷の人が皆之れを悪んだならばどうであらうか、と問うた。孔子は、郷人の善い者は好いと云ひ、悪いものは之れを悪むと云ふに越したことはないと言はれた。
 一郷の中には善いものも居り、悪いものも居るのであるから、善い者から善いと言はれ、悪いものからは悪いと言はれるやうにならなければならぬ。今三島先生の註によると、輿論は必ずしも正しいとは思はれないから、ある時代には尭舜を悪み、桀紂を好いとするものがないこともあるまい。故に今日投票を用ゐて人を挙ぐるに公とならないのは之れが為である。故に、多数を以て決をとるのは凡人の為であつて、若し上に公平無私の君子があると、必ずしも輿論を採用する必要はないと論じて居る。
 この説によると、今日の多数政治を喜ばないので専制政治がよいと云ふことになるが、これはどうか、甚だ疑問とせざるを得ない。なる程、上に君子人があつて公平無私の政治を行つたならば、或は三島先生の想像するが如き、立派な政治、正しき政治が行はれるかも知れないが、君子と言はれるやうな人は何時も居るものでない。故に公平無私の政治が何時行はれると極つて居るものでない。
 今日の多数政治、即ち立憲政治の行はれたのは、専制政治の弊害を牽制せんとして生れたもので、絶対に善い政治が出来るものとされたのではない。換言すれば、多数政治は専制政治よりも悪い政治が行はれることは時にあるが、併し専制政治の弊を出さないことが出来る。殊に多数政治でも、上に正しきものが居つた場合には、正しき輿論を作つて政治を行ふといふことにもなる。故に一概に多数政治を貶することは出来ぬ。
子曰。君子易事而難説也。説之不以道不説也。及其使人也。器之。小人難事而易説也。説之雖不以道説也。及其使人也。求備焉。【子路第十三】
(子曰く、君子は事へ易くして説ばし難し。之れを説ばすに道を以てせざれば説ばず。其の人を使ふに及んでや、之れを器にす。小人は事へ難くして、説ばし易し。之れを説ばすに道を以てせずと雖も説ぶ。其の人を使ふに及んでや、備を求む。)
 本章は、君子は道を好むが、小人は然らざるを説いたものである。
 君子には事へるに容易であるが、之れを悦ばしめることは難い。何となれば、之れに対するに道に適つたことでなければならぬからである。即ち阿佞諛好利慾は君子の好まざる所であるが、而も之れを使ふにその長所を見てするから事へ易い。之れに反して小人は之れに事へることは甚だ難いが、悦ばしむることは容易い。何となればその為す所が道に適つて居らずとも、利慾や諂諛を悦ぶからである。而して其の心が刻薄であるから、人を責むるに必ず完備を以てするから使い難いのである、と説いたのである。
子曰。君子泰而不驕。小人驕而不泰。【子路第十三】
(子曰く。君子は泰にして驕ならず。小人は驕にして泰ならず。)
 本章は泰と驕とを説いたものである。泰は安舒にしてやすらかなること。驕は舒肆にしてほしいままになることである。
 君子はやすらかにして従容迫らない風があるが、而も自ら尊大ではない。小人は之れに反して、驕であつてやすらかな処がないと説かれたのである。
 人は泰にして驕でないやうにありたいものである。処が、世間の多くの人々は、自ら優れりと思つて多少自らを恃みとする風がある。若し之れを称讃でもしようものなら、直ちに尊大になつて自分を鼻にかけたがる人が多いものである。
 かう云ふ風になると遂頑固になつて自分のみエラクなるので、自ら度量も狭隘になつて、人の説などを容れるやうなことをしない。即ち自らを誇つて自説のみ主張することになるが、これは決して君子でない。君子は知つて居つても、決して自分のみエライやうな自家広告をしない。謙遜して決して驕らないが、併し謙遜のみして居つてもいけない。この謙遜にも自ら程度のあるを要する。若しさうでないと自屈になつて、自らを卑下することになる。
 現在の人に就て何人は泰、某は驕と云ふことは憚るけれども、政治界にしても財界にしても、有名な人で泰ではなくして驕である人は可なりにあるやうに思はれる。
 原市之進は一橋家に仕へた人で、藤田東湖などと同時代である。先きに弘道館の先生をして居たが、後幕府の人となり、年五十で欧洲に行つた。この人は泰にして而も恭の人であつた。文章も書き、詩も一通りは知つて居ると云ふ人で、能く一橋公を輔佐した。温かさを有つて居つた人で、喜怒哀楽を色に現はさないと云ふ種の遠慮深い処があつた。この遠慮深いと云ふことが陰険であると誤解されて、遂に刺されたが、実に惜しい人である。この人などは泰にして少しも驕なる所はなかつた。
 又、慶喜公なども、矢張りそのやうな風の人であつた。何事も知らんやうであつて而も何事も知つて居つた。それで居て決して驕慢の態度が少しも現はれなかつた。
 尤もその風采、言語、応対から、安つぽく見えても困るが、君子は須らく泰にして恭でなければならぬ。処が中には知らんことも知つた風をしてエラがつて居るものも多い。私たちでもツイそのやうな風になることもある。これらは大いに慎まなければならぬことと思ふ。
子曰。剛毅木訥近仁。【子路第十三】
(子曰く。剛毅木訥仁に近し。)
 本章は仁を行ひ得る人に就て説いたのである。
 自ら屈せず、自ら忍び得るものは外飾がないから、仁を備へて居ると云ふのである。けれども粗樸質実の人は必ずしも仁を備へて居ると云ふ訳ではないが、かう云ふ人は仁を備へて居ることが多いと云ふことである。曩にもあつた巧言令色鮮矣仁の反対を言つたものと思へば同じことである。
 剛毅木訥仁に近しの人は至つて少い。若し剛毅木訥も過ぎると、自己のみ主張することになつて調和の出来ないのは、浮薄な人の自説を主張すると同じ処がある。
 私は欧洲の人とは多く会つて居ないが、アメリカ人とは度々会つて知つて居るが、アメリカ人は能く衆に従ふと云ふ念が盛んであるやうに思はれる。尤もその説の自己と大変に違ふ場合にははつきり断るが他のものは成るべく調和しようとする。私はある事柄二つについてサンフランシスコで、アメリカ人の多数に向つて賛成を求めたことがある。然るに一つには賛成をされたけれども、一つに反対をされたことがある。
 それは明治四十二年渡米実業団として渡米した際で、多くはサンフランシスコ、即ち太平洋沿岸に於ける六大商業会議所に招待された時で、それから太平洋よりもつと東に廻つたが、その期間は九十日程を要した。シヤトルには九月一日に着いて十一月三十日にサンフランシスコに着いたからである。
 その時には実業団一行を代表しまして、今此処でアメリカと日本とお別れするのであるが、誠に別れ惜しい、別れるのは惜しいが、又お礼の申し様もない。併し我々は折角此処まで来たものであり、又お世話にもなつたのであるから、未来に於てどうかかうありたいとか云ふやうなものを、何か後に継続的に残す工夫はないであらうか。
 若し日本側の希望する要件を申さうならば、願くは、之れを日米両国の間に永久的に何か接続する機関を常置する必要はないか。現に領事なるものがある。けれども商売人には親切にすると云ふことは出来ない状態にあるから、特に商務官を置いて、吾々と意志の疎通を図つて、商工業に忠実ならしむるために、両国政府に建議して、之れを設置せしむるやうにするがよいと云ふことであつた。
 次はアメリカの六大商業会議所と、日本の六大商業会議所との間に連絡をとり、アメリカではサンフランシスコ、日本は東京に総代を置いて毎月一回はお互に通信し合ふと云ふ案を提出した。
 処がアメリカでは、政府の力によつて商務官を置いて之れと協同的に仕事をすると云ふことは、日本としては或は必要があるかも知れないが、かういふ機関を置くが為に却てうるさくなつて、仕事の敏活を欠くやうなことになるから、到底賛成することは出来ない。けれど第二の案は最もよいことであると思ふから賛成すると云つて賛成して呉れた。
 かうして決した両国の商業会議所の連絡通信も、日本が能く通信しない為に遂に有名無実のものになつて仕舞つたが、大正四年には日米関係委員会なるものが成立し、商工業は勿論のこと、政治上のことも通信し合ふことになつた。
 アメリカ人はかうしたことを相談するにしても、はつきりと自分の意見を発表し、賛成するものは賛成し、不賛成するものは不賛成して仕舞ふ。処が日本人になると、どうもその態度がはつきりしない点が多いやうに思ふ。これなどは木訥仁に近しの方ではないと言はなければならぬ。
子路問曰。何如斯可謂之士矣。子曰。切々偲々怡々如也。可謂士矣朋友切々偲々。兄弟怡々。【子路第十三】
(子路問うて曰く。何如なる斯れを士と謂ふべきか。子曰。切々偲怡々如たる、士と謂ふべし。朋友には切々偲々し、兄弟には怡々。)
 本章は、士の徳の如何なるものであるかを説いたものである。切々は懇切、偲々は勉むること、怡々は悦である。
 子路は孔子に如何なることを士と称するかと云ふ問ひに答へて、人には切々、偲々、恰々如でなければならぬと。そして朋友には切々、偲々、怡々如であればよく、兄弟に対しては悦であればよいと。子路の資質はよいけれども修養が足らぬが為に、切、偲、怡を欠くことを注意された。
子曰。善人教民七年。亦可以即戎矣。【子路第十三】
(子曰く。善人民を教ふる七年、亦以て戎に即かしむべし。)
 本章は、平素の訓練がなければ戦につくことが出来ないことを説いたものである。
 善人(盛徳の君子ではない)がその民に孝弟忠信を教へ、又射御撃刺の術を教へることが七年に及んで、始めて兵事に従はしむべきであると云ふので、戦は重大なものであるから軽々に行ふべきものではないことを説かれたのである。
子曰。以不教民戦。是謂棄之。【子路第十三】
(子曰く。教へざるの民を以て戦ふ。是れ之れを棄つと謂ふ。)
 本章は人君の、教へざる民を戦に用ひることの危険なるを説かれたのである。
 人の君たる者が、平素に於て民を教へないで居つて、直ちに戦に用ゐることは、戦に利を招くことでない。即ち敗亡戦死したりするから丁度民を棄てるのと同様であつて、残虐の甚だしきなりと云ふので、前章と同様、意を反覆したものと云ふべきである。
子曰。有徳者必有言。有言者不必有徳。仁者必有勇。勇者不必有仁。【憲問第十四】
(子曰く、徳ある者必ず言あり、言ある者必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁あらず。)
 本章は、心の内に蔵して居るものは、外に現はるるのは当然であるが、外に発したものでも、内にないものもあると云ふことである。有言者は善言を出すことを云ふのである。徳とは道徳の徳で、韓退之の原道に「博く愛する、之れを仁と謂ふ。行つて之れを宜しくする、之れを義と謂ふ。是れに由つて之く之れを道と云ふ。己れに足つて外に待つなき、之れを徳と云ふ」の徳である。
 故に徳のあるものは、己れに満足して居つて人に助けて貰ふことを考へないから、平素温かな態度で居ることが出来る。かうして徳を積んで居れば、その英華が自ら外に発する。即ち徳あるものは必ず善言を発するものである。けれども、善言を出しても徳のある人もあり、徳のない人もあるからである。巧言令色鮮矣仁とあるのも、善言者は必ずしも有徳の士ではないことの証拠となるものと思ふ。茲に云ふ必ずしも徳あらずと云ふことは、屹度徳がないと云ふ意味ではなく、徳がないこともあると云ふ意味である。
 仁者は広い意味の仁で、博く愛する之れを仁と云ふと同じで、仁者は身を奮つて救済するに勇気があるものである。けれども勇者は必ずしも仁者と云ふことが出来ない。勇気は外に飾ることが出来る。又、為にしようとして見せかけることもある。このやうな場合は終始遭遇する事実であるが、之れは真正なる仁を行ふのではなく飾つたものである。本当に仁を行ふ心のあるものは活気があるから、勇者であるけれども、人に見せよう、為にしようとするのは、形は仁であつても、仁の趣旨とは甚だしく違ふものである。故に勇あるものは必ずしも仁者であると云ふことが出来ない。
 茲に仁を行つたからと云つて、それが本当の仁者であるかどうかはその人の常の行動を見て居れば直ちに分る。今日の如く災害の出来た場合に義金することがあつても、之れは果して本当の仁を行ふのであるか、人に見せるのであるか、為にするのであるか、能く判る。
南宮适問於孔子曰。羿善射。奡盪舟。倶不得其死然。禹稷躬稼而有天下。夫子不答。南宮适出。子曰。君子哉若人。尚徳哉若人。【憲問第十四】
(南宮适孔子に問うて曰く。羿射を善くし、奡舟を盪《うごか》す。倶に其死の然を得ず。禹稷躬ら稼《たがや》して天下を有つと。夫子答へず。南宮适出づ。子曰く、君子なるかなかくの如き人。徳を尚ぶかなかくの如き人。)
 本章は力を尚ぶよりも徳を尚ぶべきを言つたのである。羿は有窮国の君で、射を善くしたが、臣の為に殺された。奡は浞の子であるが夏后少康に殺された。
 南宮适は孔子に問うて、奡は射を善くした、奡は舟を陸に行る程の力を有つて居た外に権勢をも有つて居たのに、共に誅された。処が、禹、稷は之れに反して農業を努めて居つても天下を有つことが出来たことを思ふと、如何に心が強く、又知識があり、技術が優れて居つても、徳を尚ばなければいけないと云つた。孔子はそれに答へなかつたが、南宮适が出てから斯の如き人こそ本当の君子である、徳を尚ぶ人であると称めた。
 故に如何に優れた技術を有つてゐても、こればかりではいかない。必ず徳を尚ぶやうでなければならぬ。羿、奡の如く大変に強力であり又技術が巧みであつて、世人から珍重がられても、完全な死を遂げなかつたのはその志の当を得なかつたからである。その志を高尚にするには、徳を尚ぶ事が必要である。
子曰。君子而不仁者有矣夫。未有小人而仁者也。【憲問第十四】
(子曰く。君子にして不仁なる者あるか。未だ小人にして仁なる者あらず。)
 本章は小人は道を学ばざるを言つたものである。君子は位の高い人ではなく行の高い人で、所謂道を学んで善に志すものである。小人は君子と反対に道を学ばず善に志さぬものである。「有矣夫」はあるあらんをかけた辞で、婉曲の言ひ表はし方である。
 君子は道を学び善に志すと、或は方正端厳に過ぎては不仁に至ることがある。故に君子で仁でないものもあるかも知れないと言ひかけて小人には仁者はないと結んだのである。之れは君子の道に志すことの強く、小人の然らざるを明瞭せしむる為である。
子曰。愛之能勿労乎。忠焉能勿誨乎。【憲問第十四】
(子曰く。之れを愛する能く労するなからんや。忠にして能く誨ゆるなからんか。)
 本章は、徒愛、徒忠はその人に益ないことを言つたものである。そして愛は独り子ばかりではなく、忠も亦独り君のみに関したことではなく広い意味である。
 人を愛するといふことは、労はることばかりではなく、又無暗に慰安を与へたり、安楽にのみしようとすることではない。寧ろその人に勤労を与へるやうにしなければならぬ。例へば学校へ通ふのに、車に乗せると云ふよりも徒歩で通はせるやうにする。又、学校から帰つたならば復習をさせると云ふやうなことが賢母としての義務である。徒らに可愛がつて勤労を与へないのは、所謂姑息なる愛であつて真の愛と云ふことが出来ない。
 説苑に「孟母機を断つ」と云ふことがある。之れは孟軻三歳で父を喪つたが、母の仇氏賢徳があつて軻を能く撫育した。曾つて軻が学んで家に帰つて来たので、母は之に問うて汝の学問はどれ程の所まで進んだかと。軻は旧の通りであると云つた。すると母は直ちに刀を以て機を断つた。軻は惧れてその訳を問うた。母は之れに答へて、汝が中途にして学を廃すのは、丁度私がこの機を断つのと同じであると教へた。それから軻は日夜学を勉めて止まなかつた。それが為に遂に大賢として世人の尊崇する所となつて居るが如きは、徒らにその子を愛しなかつた、即ち勤労せしめたが為に、斯の如き結果を得たのである。
 故に、真に家庭の能く治つた所では、母は子供に対するには必ず徒愛ではない。相当の勤労を与へてその心志の堅固を期しなければならぬ。俚諺に可愛子に旅をさせうと云ふのは勤労を与へよと云ふことである。旅に出ると家庭に居るやうな我儘も出来ず自分で自分を処置しなければならないから、自ら相当の勤労をする事になるからである。
 苟も人に忠実を尽すには、徒らに其の意に従順するやうな御機嫌取だけではいけない。若しその人にして放縦に流れようとした場合には之れを教誨し善導しなければならぬ。平清盛の放恣を諫止した重盛は父に忠であつたと云ふことが出来る。故に真の忠は、人の為、君の為を思うて、教悔し善遷せしめなければ止まぬ所にある。
子曰。為命。裨諶草創之。世叔討論之。行人子羽脩飾之。東里子産潤色之。【憲問第十四】
(子曰く。命を為くるに裨諶之れを草創し、世叔之れを討論し、行人子羽之れを脩飾し、東里の子産之れを潤色す。)
 本章は鄭の国の政治の有様を批評したもので、道理とか精神とかを教育したものでない。春秋の世は非常に礼楽を重んじたので、辞令などもやかましいから、文化が発達したと云つて自ら誇つて居る。今日においても尚ほ及ばんやうに思はれる点がある。之れを私に言はせると、このやうに余り礼楽を重んずると云ふことから、それが単に形式となり所謂虚礼になつたのではないかと思ふ。
 併し茲に言ふ礼と云ふのは、単に座敷にあつての坐り方であるとか物の言ひ方であるとか云ふやうな儀式ばかりではなく、政事にも多く書いてあるし、又民法、刑法はどこにも関係を有つて居るのである。けれども礼の為だからと云つて、余り辞令を巧みにし、一言半句の事についても論じ合つて居るのは感心しないことである。鄭の国なども春秋の礼楽を重んじた時代であつたから、殊にこのやうになつたのかも知れない。春秋の例によると、その国々に公侯伯子男と云ふ五つの等級をつけてあつた。鄭の国などは伯の国であり、斉の国などは公で斉の桓公と云ふのは之れが為であり、滕は侯の国であつたから、滕の文侯など呼ばれたのは之れが為である。如何にその格式を重んじたか之れを以て察することが出来る。今日我が国などで華族の階級に公侯伯子男を用ひて居るのはこれに模したのである。
 孔子も非常に礼を重じた人であるから、従つて礼に詳しいのであるが、ある時孔子が大廟に入つたが、色々なことを聞いたので、側の人は之れを見て、孔子が礼を知つて居るならば、事毎に聞く必要がないではないか、礼を知つて居ると云ふのは疑はしいと。之れを聞かれた孔子は、大廟に入つて事毎に聞くのが礼ではないかと云つた、と論語にある。これ程の人であるから、茲に、鄭の国の辞令に巧みであつたことを称揚されたのである。挙げられた四人の中、子産は殊に有名で論語の中にも出て居る。
或問子産。子曰。恵人也。問子西。曰。彼哉彼哉。問管仲。曰。人也。奪伯氏駢邑三百。飯疏食。没歯無怨言。【憲問第十四】
(或る人子産を問ふ。子曰く。恵人なり。子西を問ふ。曰く。彼か彼か。管仲を間ふ。曰く。この人なりや、伯氏の駢邑三百を奪ひ、疏食を飯ひ、歯を没するまで怨言なし。)
 本章は、子産、子西、管仲の人物評である。子産は政をなすに決して寛ではないが、併しその心は民人を愛さうとすることが主となつて居る。子西は楚の公子で、字は申能と云ひ、楚王が死んだ時に自分は立たないで昭王を立て、そして政治を改革して大変に成績が挙つたけれども、楚の国が王を僣称したことを止めることが出来なかつたり、昭王が孔子を用ゐようとしたけれども、之れも阻んで止めた。然るに間もなく白公を召し用ゐた所から、遂に禍乱を招いたのであると云ふのが是等の人の事蹟である。
 或る人が子産はどんな人であらうかと云ふ問に対して、孔子は恵人とは云ふことが出来るけれども、まだ仁者と云ふことが出来ぬ。子西はと云ふと、彼は言ふに足らないものであると貶して仕舞つた。管仲はとの問に対しては、彼は仁者であると云つたのは、伯氏が罪があつたので、管仲之れを正してその有つて居る所の駢邑三百を取上げたので、非常に零落したけれども、死に至るまで管仲を怨むことがなかつたといふのである。
 絶対に完全な人、何でも兼備して居る人は到底求めることが出来ない。多数の人は、一方に長じて居るかと思ふと、他方に短所を有つて居る。私なども一方には長じて居る所もあるかも知れないけれども、他方には短い所もある。今の世には事によると風呂敷を拡げ過ぎて実行の之れに伴はない者がある。知識のある人は実際少くはないけれども、厚く之れを行ふと云ふ徳行が欠けて居ることが多い。人に於て、長所短所のあるのは免れることの出来ないのは、今の社会ばかりでなく、矢張り孔子の時代にもあつたのでこの言をなしたものと思ふ。
貧而無怨難。富而無驕易。【憲問第十四】
(貧しくして怨みなきは難し。富みて驕るなきは易し。)
 本章は貧に処して怨なきは困難であり、富んで驕らずに居ることは容易いと云ふのであるが、実際は貧しいと怨むことも多く、富むと驕り易くもなるから、私から言ふと貧富共に難いと言はねばならぬ。併し貧しくても怨まないと云ふことが、貧を楽しむと云ふことであつてはならぬと思ふ。貧しいものも勤めれば富となることが出来るのに、自らその貧に甘んじて居ることはいけない。寧ろ貧を恥かしいものであると云ふことでなければならぬ。
 中には大いに富まうとしても、病気や其他色々な不幸が続いたが為に働くことも出来ず、止むなく貧乏になつて居るものもあらう。けれども、働きさへすればその労力に対して必ず報酬があるから、強ひて富みを求めようと焦らなくとも、自ら富が生ずるものである。然るに世の中には、富の平等を得なければならぬと云ふので、社会主義を論ずるものもあるけれども、是等は此の道理を考へずして居つたものと思ふ。貧といひ、富といふことはどの位の標準にしてよいものか、三井、三菱の富と比べれば、私などは貧の内に這入らなければならないが、併し長屋などに這入つて居るものと比べると富の方であらう。家も自分のものであり、別に借金がある訳でもないし、人に迷惑をかけたり、人から物を貰つたりするやうなこともないから、貧とは言へなからうと思ふ。
 尤も学者などの中には、貧窮して居るが少しも之れを怨むなく、己れを安じて居る者も多い。又名を言ふことは遠慮するけれども、幕府の家来で可なりの地位まで進み、私なども色々世話になつたこともある人だが、最終に事が能く行かなかつたので貧しくなつた。私は之れを世話したこともあるが、貧しくなつたからと云つて、食ふことが出来ないと云ふ程ひどくなつたのではない。けれども、かう云ふ逆境に陥つても、之れは自分の天命だと云つて諦めて居た。そして人にこびを呈してどうかして貰ふと云ふやうなこともしない、所謂天をも恨みず、人をも怨みずと云ふ態度を取つて居つた。この人などは貧しうして怨みなき人と云ふべきである。
 又、富んで驕らん人と言へば、森村市左衛門、三井の三野村利左衛門、古河市兵衛などはこの種の人と言へよう。
子曰。孟公綽為趙魏老。則優。不可以為滕薛大夫。【憲問第十四】
(子曰く。孟公は趙魏の老となせば即ち優《あまり》あれども、以て滕薛の大夫となすべからず。)
 本章は、孟公綽の人となりを論じたものである。孟公綽は魯の大夫であるが、趙、魏の如き卿の家老としては余りある材ではあるけれども、滕、薛の如き諸侯の大夫とするには威望も材能も足らないと評された。
 人には各〻長所短所があるものであるから、人の先きに立つて用ゐる人は能く之れを見分けることが大切である。人の適材を適所に用ゐると云ふことは、却〻六ケ敷いものであるから、之れをすつくり合せることが出来ないで居ることが多い。私なども常に人の長所短所、適材適所と云ふことを努めて居ても、時々は見そこなひをして居る。私などが適材でないかも知れないが、適所に居る、若しも適材だなどと思つて役人などになつて居つたならば、果して適所として居たかどうかは疑はしい。世の中に風呂敷を拡げるのは、其の人が決して適材ではないのであるに拘らず、自分では適材だなどと思つて居るので遂に実行と云ふことが出来ずに仕舞ふ。併し、如何に適材が適所にあつたとしても、遠慮が過ぎて、ツイ勤めないものなどもあるが、之れなどは遺憾なことである。先づ政治上から云へば、上総理大臣より、下は区役所の吏員に至るまで、果して適材を適所に配して仕事の能率を挙げるやうにして居るであらうか。即ち内務大臣は内務大臣として適材が適所にあるか、大蔵大臣は大蔵大臣として適材が適所にあるか、若し、これが行はれて行けば平仄が揃つて順序能く進んで行くものである。さうでないと其処に色々な支障が出来て、思ふやうに仕事が進行せぬことになる。
 それから、自ら偉くなる、悧巧になると云ふのが色々支障をなすものである。殊に悧巧ぶる、悧巧がると云ふことは今の世の中に甚だ多い。故に何かあると何か小理窟をつけて見たり、何かやつて見たりするのがあるが、之れは甚だ悪い。道話に、五人の家族のある家は色々理窟を言い合つてやかましいが、十人の家族のある所は誠に平和に治つて行つて居る。之れは、前のは偉い人ばかり集つて居るに反し、後のは愚かな者ばかり集つて居るからだと言ふのがあるが、こんな悧巧は甚だいけない。
子路問成人。子曰。若臧武仲之知。公綽之不欲。卞荘子之勇。冉求之芸。文之以礼楽。亦可以為成人矣。曰。今之成人者。何必然。見利思義。見危授命。久要不忘平生之言。亦可以為成人矣。【憲問第十四】
(子路成人を問ふ。子曰く。臧武仲の知、公綽の不欲、卞荘子の勇、冉求の芸、之れを文《かざ》るに礼楽を以てせば、亦以て成人と為すべし。曰く。今の成人は何ぞ必ずしも然らん。利を見ては義を思ひ、危きを見て命を授け、久要平生の言を忘れず、亦以て成人と為すべし。)
 本章は全備の人を説明したものである。成人は全人と云ふことである。臧武仲は魯の大夫、荘子は卞邑の大夫、今日では色々説があるけれども、子路の言として述べよう。
 子路が如何なる人が成人と云ふかに答へて、臧武仲の知、孟公綽の不欲、卞荘子の勇気、冉求の才芸を一人に集め、之れを文るに礼楽を以てすると成人と云ふことが出来ると。然るに子路は今の成人は利を見て義を思ひ、危を見て身命を賭して救ふことを思ひ、そして平生言つたことを忘れなければ、成人と云ふことが出来ると。
 併しかう云ふことは言ふべくして行ふことは六ケしい、甲の長所、乙の美点と云ふやうに長所美点と丈けを取つて一丸とすれば理想的のものが出来る訳であるが、実際はさうは行かない。俗謡に「梅の香を桜に有たせ、垂柳に咲かせたい」と云ふことなども、長所美点を取つて一つの立派な花にしようとしたのである。私も昔、木戸の包容力、伊藤の学問、井上の機敏があれば立派なものであると云ふと、側の人が之れを聞いてそれが出来れば結構だがと云つて笑つたことがある。けれども子路の言つたやうな利を見て義を思ひ、危きを見て命を授く約束の言は忘れない位のことは私でも出来るし、又この点に向つては平素努めて居ることである。
子問公叔文子於公明賈。曰。信乎。夫子不言不笑不取乎。公明賈対曰。以告者過也。夫子時然後言。人不厭其言。楽然後笑。人不厭其笑。義然後取。人不厭其取。子曰。其然豈其然乎。【憲問第十四】
(子、公叔文子を公明賈に問うて曰く、信なるか、夫子言はず笑はず取らずとは。公明賈対へて曰く。以て告ぐる者過てり。夫子時にして然して後に言う、人其の言ふを厭はず、楽しんで然して後に笑ふ、人其の笑ふを厭はず、義にして然して後に取る、人其の取るを厭はずと。子曰く。其れ然り豈其れ然らんや。)
 本章は公叔文子の人となりを批評したものである。公叔文子は衛の大公公孫枝のことである。公明賈も矢張り衛の人である。夫子とは孔子を言はないで文子を言ふのである。
 孔子は公明賈に対つて、公叔文子の事を問うて曰ふには、世間では文子は言はない、笑はない、取らないと云ふ批評を下して居るが、之れは果して本当であるかと言はれた。公明賈は之れに対へて云ふにはそれは告げる者の過ちである。文子とて言はない、笑はない、取らない者ではない。唯夫子は言ふべき時に於て初めて言ふけれども、其の他には言ふことがない。故に人は、その言ふことを厭ふやうなことがない、心に楽んで後始めて笑ふので、巧笑、諂笑、嘲笑と云ふものがないから、人はその笑ひを厭ふことがない。又義であるか、不義であるかを見極め、そして義に合つて後に取るから、人は其の取ることがあつても之れを厭ふことがない。即ち言ふにしても、笑ふにしても又取るにしても紊でないから、人は之れを見て、言はない、笑はない、取らないと言つたのであらうと。然るに孔子は、之れを聴いたが直ちに信じないで、はアさうかね、まさかそれ程でもあるまいと疑問を残して置かれた。
 若し公明賈の言の如きものであつたならば、文子は殆ど聖人の至れる処まで達したものと云ふことが出来る。即ち言はず、笑はず、取らずと云ふ事は此の章句に於て重要なるものであつて、而も亦人の至れるものはかうならなければならぬ。併し、之れは却て至難なものである。丁度紊りに言はぬ人は多弁にはならぬけれども、下らんことを云ふと多弁になつて仕舞ふ。けれども之れに節度があれば多弁であつても、言はないやうに思はれる。笑ふにしても亦さうである。取るにしてもさうである。正くして取り、正しからざれば取らず、と云ふ様にならなければならぬ。得に義を思ひ、取るに理あつて取るのでなければならない。斯の如き人であつて始めて聖人と云ふべきものである。
 吾々も常に斯くあり度い、節度の正しきに従ひ度いと希望して居るけれども、之れを完全することが出来ない。此の考へが何時でも事の大小に拘らず適用することが出来れば、謂はゆる心の欲する処に従つて其の規矩を踰えないことになると思ふ。
子曰。臧武仲。以防求為後於魯。雖曰不要君。吾不信也。【憲問第十四】
(子曰く。臧武仲、防を以て魯に後を為さんことを求む。君を要せずと曰ふと雖も、吾は信ぜざるなり。)
 本章は臧武仲の行動を非難したものである。防は地名で、武仲の封邑である。
 臧武仲は曾つて罪を得たので邾に奔つたが、後又邾から帰つて来てその邑であつた所の防に入つた。そして祠を立てて祀を絶たないやうにし度いと請うた。この請ひが許されると邑を去るけれども、許されなければ防に拠つて叛かうといふ勢を示して脅迫した。この事は左伝にあるので、孔子は、防に祠を立てることを魯に求めたのは、形式からすれば脅迫ではないけれども、その形迹からすれば純然たる脅迫である。故に孔子は吾は之れを信ずることが出来ないと云つて、臧武仲の行動を大いに非難したのである。
 孔子は春秋を作り、各諸侯の行動に就て一々その善悪邪正を言葉の上に現した。形式上からすれば、罪悪にならないけれども一歩を進めれば罪悪になると云ふことを論じ、そしてその褒貶黜陟の言葉を文法巧みに用ゐて書いて居る。私は之れを能く読まないけれども、水戸義公が能く左氏伝を読まれたことを見たのであるが、之れによるも、左丘明が孔子の真髄を書いたものだと居つて居る。今日では能く筆誅とか春秋の筆法を以てすればとか云ふことを言つて居るのは、その文法の巧な為である。私は左伝の中にある文句で今以て記憶して居るのは隠公元年の項で、「夏五月、鄭伯克段于鄢」と云ふ句である。鄭伯は国君で、段は鄭の弟である。併し不義であるが為に弟を除いて段と書いた。君の身を以て臣下である弟を討つに二君の例を用ゐて書いたのは、段は強大俊傑で、相並ぶ程であつたことを証するものである。而して克つは国討と云ふ意味で非難したものである。この僅かの文句の中にも却〻意味深きことが含まれて居ることが判る。
子曰。晋文公譎而不正。斉桓公正而不譎。【憲問第十四】
(子曰く。晋の文公は譎りて正しからず。斉の桓公は正しくして譎らず。)
 本章は晋の文公と斉の桓公と比較し、その正、不正を論じたものである。
 孔子は斉の桓公と晋の文公の二人の軍の用ゐ方を評したもので、晋文公は譎詐であるから正しくないが、斉の桓公は正しくして譎詐ではないと言はれたのであつて深い意味はないが、之れを左伝について見るに、文公始め曹衛を伐つて楚師を救ひ、後曹衛を復して二国を離反せしめたなどは譎詐な行動と云ふことが出来る。斉の桓公は楚を伐ち責むるに貢をしないこと、昭王の帰らないことの二事を以てしたのは正にして譎でない証だとすることが出来る。我が戦国時代に於ては武田信玄は晋の文公の如く織田信長は斉の桓公の如きものであらうか。
子路曰。桓公殺公子糾。召忽死之。管仲不死。曰。未仁乎。子曰。桓公九合諸侯。不以兵車。管仲之力也。如其仁。如其仁。【憲問第十四】
(子路曰く。桓公公子糾を殺す。召忽は之れに死し管仲は死せず。曰く未だ仁ならざるか。子曰く。桓公諸侯を九合するに兵車を以てせざるは管仲の力なり。其の仁に如かんや。其の仁に如かんやと。)
 本章は管仲の仁者なるものを言つたものである。子路問うて曰ふには、斉の桓公が公子糾を殺した時、召忽は之れに殉じたが、管仲は茲に死ななかつたばかりでなく桓公に仕へたのは、君を忘れて利に奔つたもので、仁者と云ふことは出来まいと。然るに孔子は、桓公が天下の諸侯を合同して之れを統督したが、之れをなすに兵車を用ゐなかつたのは管仲が補佐の力である。治世安民の大功は仁と称すべきものであるから、管仲は寧ろ大なる仁者であらうか、と再言したのは、その仁の大なるを称したものである。
 若し普通からするならば、管仲は自分の仇敵である桓公に仕へたことは、甚だしき不仁と称すべきものであるけれども、桓公をして戦争をなさしめず平和裡に覇業をなし、而かも民の為に尽したことは仁の大なるものであるから、先きに公子糾の為に死ななかつた罪は之れを以て償ふことが出来る訳である。孔子は小節に拘泥せん処がある。若し小節に拘泥して居れば、管仲などを必ず不仁者として貶して仕舞ふであらうが、さうでない所などは孔子の大なる所以である。謂ゆる道学者と称する者は屑々たることに泥んで、之れを破つて行くことが出来ないのは遺憾である。小疵を捨てて大功を取つた孔子の批評は実に大なるものであると謂ふべきである。
子貢曰。管仲非仁者与。桓公殺公子糾。不能死。又相之。子曰。管仲相桓公覇諸公[諸侯]。一匡天下。民到于今受其賜。微管仲。吾其被髪左衽矣。豈若匹夫匹婦之為諒也。自経於溝瀆而莫之知也。【憲問第十四】
(子貢曰く、管仲は仁者に非ざるか、桓公公子糾を殺して死する能はず又之を相《たす》く。子曰く、管仲桓公を相けて諸侯に覇とし、一たび天下を匡して民今に到るまで其賜を受く。管仲微《なか》りせば、吾それ髪を被り衽を左にせん。豈匹夫匹婦の諒を為し、自ら溝瀆に経《くび》れて、之を知らるる莫きが若《ごと》くならんや。)
 本章は管仲の仁者であることを言つたので、言はば仁に功があれば矢張り仁者であると。
 子貢は孔子に問うて曰く、管仲は仁者でないではないか、桓公が公子糾を殺したが、管仲は糾の為に其の身を殺すことの出来なかつたばかりでなく、其の仇とも見るべき桓公に仕へて之れが相となつたのは余りにひどくはないかと。然るに孔子は之れに答へて、私はさうは思はぬ。何となれば、管仲が桓公の相となつて諸侯の長となり、周室を尊んで君臣の分を正しくし天下を正しくした。そして民は今に到るまでもその恩恵を受けて居る。若しその時に管仲が居なかつたならば、この中国も夷狄の為に侵略されて仕舞つたのであらうから、私は被髪左衽の夷狄の民となつて居なければならなかつた。然るにそのことなく、衣冠を服して中国の民となつて居ることが出来るのは、偏に管仲の力である。然らばその事たるは実に民には大功であると言はねばならぬ、之れをどうして仁者でないと云ふことが出来よう。彼の匹夫匹婦が小さな信の為に自ら溝の中で縊死して、誰もその死を知らなかつたものと、どうして比較することが出来ようと言はれた。
 前章にある子路の問ひは、管仲の公子糾の為に死ななかつたのを非難して居るのに反し、本章の子貢はその死ななかつたのは固より責むべきであるが、それのみならず之れを相けて行つたと云ふことは何たることであらうと云ふ点にまで進んで居る。これなどは二人の性質の異つて居ることが推察される。然るに孔子は、公子糾の為に死するのを恰も匹夫匹婦の小信に比し、小信の為に死なないで、後の大功を立てたるを称揚して前過を責めなかつたのである。
 同じく仁にも、大小、厚薄、深浅があると云ふことが出来る。例へば赤色の中には濃いものもあり、淡いものもあるが、併し何れも皆赤色と云ふことが出来るやうに、大小、深浅があるから、その中小を捨て大につくやうに、小過は大功に若かないことになる。少しく意味は異るが、俗に大功は細瑾を顧みずと言ふのは、後の大功の為に先の小過は許されて居ることである。と云ふやうに、公子糾の為に死することは信であるにしても、それは小さな信であるから、後の大功とは比べものにならんことになる。
公叔文子之臣大夫僎。与文子同升諸公。子聞之曰。可以為文矣。【憲問第十四】
(公叔文子の臣、大夫僎、文子と同じく公に升《のば》る。子之れを聞いて曰く、以て文と為すべし。)
 本章は文子の行がその諡にかなふと云つて称したのである。
 公叔文子の家臣の僎なる者の賢であることを文子が知つて居たから之れをその君に推薦した。為に僎は文子と肩を並べて朝に昇ることが出来た。孔子之れを聞いて、斯の如き行をなしたことは、その諡の文にかなふと言はれたのである。春秋の時代には儀礼が非常にやかましかつたので、文と称するのは軽々しくすることが出来なかつた。然るに、公叔文子が能くこの人を知り之れを薦めたのは、己れを忘れて私無く、君の為に賢を得ることを努めたもので、大いに称揚してよい。即ち文の諡があつても決して之れを恥かしめるものでないと言つた。
 御維新頃でも能くこのやうな例はあつたやうである。けれども多くの人は却〻之れを能くやることが出来ないやうである。尤も始めにはその人の才能を見出し、これならば相当の働きをするであらうと思つて之れを薦めるが、併しその人が段々才能を発揮して来て、己れを凌ぐやうになると之れを嫉んだり、貶したりする人が多いものである。
 私は能くは知らんけれども、木戸公は能く人を引き立てた徳の高い人のやうに思はれる。如何にその人がえらくなつて来ても、人を忌むとか嫌ふとか云ふやうなことはなかつたやうである。このやうなことは余程徳が高くなければ出来ないものである。
 木戸公の後進からえらい人の出たのも、之れが為であらうと思ふ。井上公にしても、伊藤公にしても皆木戸公に引立てられて、そしてその長所を発揮したのである。自分でも之れを助けてやつて居るけれども、之れなどは少しも現はさない。良いことは後進の者がやつたやうにして居る。自分は彼には及ばんと云つて、自分を空しうする。其処にその人の人格の高さが窺はれる。
 例へば憲法を草案するにしても、木戸公は憲法を何も知らん筈はないけれども、之れは伊藤がよいから伊藤がやれ、財政は井上がよいから井上がやれと云ふ風にした。之れなどは木戸公の徳望の高く人を容れる雅量もあつたよい例であらうと思ふ。之れに反する者は人の短所のみを責めたり、彼などはどうして吾に及ぶものかなどと云ふ。このやうでは到底人才を薦めることが出来るものではない。
 一体に知識、才能のある人は、俺が俺がと云ふやうに我を出したがる。一寸したことで説をなした場合、説が二つになる場合、己れのみえらいやうなことを云ふ。人才を働かせるやうにするには、徳望も大事なことであるけれども、人を容れる雅量がなければならぬ。木戸公はそのやうな人と称すべきであらう。三条公も自分の働きよりも人を用ゐるといふ風だつた。
子言衛霊公之無道也。康子曰。夫如是奚而不喪。孔子曰。仲叔圉治賓客。祝鮑[祝鮀]治宗廟。王孫賈治軍旅。夫如是奚其喪。【憲問第十四】
(子、衛の霊公の無道なるを言ふ。康子曰く。夫れ是の如くして奚喪《ほろ》ぞびざる。孔子曰く。仲叔圉は賓客を治め、祝鮑[祝鮀]は宗廟を治む、王孫賈は軍旅を治む。夫れ是の如し、何ぞ其れ喪びん。)
 本章は、その君が無道であつてもその臣下に賢才があつて之れを治めて居ると、君位を保つて居ることが出来ることを言つたのである。
 孔子が衛の霊公の無道であることを談ずると、季康子は之れに対して、然らばその位を失はなければならぬ筈であるのに、何故にその位を喪はないであらうかと問うた。孔子は霊公の私行は無道であるけれども、その臣下たる仲叔圉は賓客に接して外交のことを治め、祝鮑[祝鮀]は宗廟に仕へて祭祀教育を治め、王孫賈は軍旅を整へて兵備に当つた。斯く才能のある者を用ゐて、その局に当らしめたが為に、霊公の如き私行が無道であつても、矢張りその位を失はずに居ることが出来る。斉桓の覇は一代で失ひ、晋文の子孫に伝へたのは賢臣の多少によるものである。
 孔子は衛公の引例によつて、季康子に賢才を用ゐなければならぬと諷した。故に人を知るの明があれば能く一国を治むることも出来る訳である。若し人を知ることが出来れば、自分は無能であつても能く治まつて行くのは、丁度衛の国の治まつて行つたやうなものである。
 このやうな例は独り国の政治のみでなく、銀行、会社などにも能くあることである。之れは明白に言ふことは出来ぬけれども、実際、会社銀行が景気が悪く借金があつたりして居るが、下の者の遣り方が甘い為に、能く世間にも暴露されず、遂には之れを立直して行つたといふことがある。之れは上に居るものは悪いけれども、人を知るの明があつて賢才を用ゐたからである。又政府の監督して居る会社で実際その内容が悪くとも、政府が監督して居る為良いことがある。故に実際仕事に当る者は、人を知るの明があつて、賢才を見出すことが非常に必要な又大事なことである。
子曰。其言之不怍。則為之也難。【憲問第十四】
(子曰く、其言の怍ぢざる、則ち之れを為すや難し。)
 本章は言葉の慎むべきを言つたのである。
 人にして必ず実行しなければならぬと云ふ考へがあれば、其の言葉を出すにも、果して行ふことが出来るかどうかと思ふ。言をなすに恥ぢる心があれば実行することが出来ないのである。彼の大言壮語をなして快を貪るものは、少しも実行しようと思ふ心がないから出来るのであつて、実行する意志をもつて居ればこんな大言壮語などは出来るものではない。
 今日の議場の状態を見るに、四百の頭顱は言ふを恥ぢざるものであると思はざるを得ない。昨日の言が今日はどうなつても何とも思はぬのは、既に実行しようと云ふ誠意がない、恥を知らないものである。世に食言と云ふことがあるが、之れなども言責を重んじない、実行を考へない所謂其の時其の都合によつて代へる処の豹変の徒である。言のみで行のないものが政治の衝に立つて居れば、到底立派なる政治を行ふことは出来ない筈だ。
 自らの言に恥ぢることを知らないで居るから、人を責めることをやる。自分では出来もせぬことに大言壮語してえらがつて居る。常にこんなことを言つて居るから、世間でも余り気にも止めない。利目が少いから、益〻その言を甚だしくする。それでも駄目になると、此の間のやうに大臣の原稿を引つたくる。誰がやつたか知らぬが、恥を知らぬから、こんな事も出来る。之れは独り政治界のみでなく実業界にもある。実業界の中にも自分一人で天下を経営するやうな事を言つて居るものもあるが、実際は出来もせぬ。自分で約束して置いて之れを行はなかつたと云ふやうな事もある。けれども、之れを政治界と比較すれば少いやうに思はれる。之れは政治界とは比較的関係が深いから多いやうに感ずるのかも知れない。
陳成子弑簡公。孔子沐浴而朝。告於哀公曰。陳恒弑其君請討之。公曰。告夫三子。孔子曰。以吾従大夫之後。不敢不告也。君曰告夫三子者。之三子告。不可。孔子曰。以吾従大夫之後。不敢不告也。【憲問第十四】
(陳成子、簡公を弑す。孔子沐浴して朝し、哀公に告げて曰く。陳恒其の君を弑す。請ふ之を討たん。公曰く。夫の三子に告げよ。孔子曰く。吾大夫の後に従ふを以て、敢て告げずんばあるべからず。君夫の三子者に告げよと曰ふと。三子に之きて告ぐ。可《き》かず。孔子曰く、吾大夫の後に従ふを以て敢て告げずんばあらず。)
 本章は君を弑するの大賊を討たなければならぬと孔子が云はれたのである。
 斉の大夫陳成子が其の君の簡公を弑した。この時は孔子が致仕して居つたけれども、天下の大事なりと信じたものだから、斎戒沐浴して入朝し、哀公に告げて云ふには、陳恒は其の君を殺したから、之れを討たなければならぬと。公は之れを断ずることが出来ず、夫の三子に告げよと言つた。孔子は出て歎じて言ふには、吾は彼等に従つて国政を執つたことがあるから、之れを告げなければなるまいと。それから三子に行つて陳恒討伐のことを告げたけれども、これは不可ぬと云つて承諾しなかつた。孔子は、吾は彼等に従つて国政を執つたことがあるから之れを告げなければならぬと言つて三子の不臣の心を警めた。
 この章は、単に事実を陳べたので、大して深い意味を有するものでない。
子路問事君。子曰。勿欺也。而犯之。【憲問第十四】
(子路君に事へんことを問ふ。子曰く、欺くなくして之を犯せ。)
 本章は孔子の語としては余り感服せん。この位のことは孔子を俟たなくとも知るべきである。余りに子供だましの如きものである。重きを置くに足らんかと思ふ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)