デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一

15. 適材を適所に置け

てきざいをてきしょにおけ

(66)-15

子曰。孟公綽為趙魏老。則優。不可以為滕薛大夫。【憲問第十四】
(子曰く。孟公は趙魏の老となせば即ち優《あまり》あれども、以て滕薛の大夫となすべからず。)
 本章は、孟公綽の人となりを論じたものである。孟公綽は魯の大夫であるが、趙、魏の如き卿の家老としては余りある材ではあるけれども、滕、薛の如き諸侯の大夫とするには威望も材能も足らないと評された。
 人には各〻長所短所があるものであるから、人の先きに立つて用ゐる人は能く之れを見分けることが大切である。人の適材を適所に用ゐると云ふことは、却〻六ケ敷いものであるから、之れをすつくり合せることが出来ないで居ることが多い。私なども常に人の長所短所、適材適所と云ふことを努めて居ても、時々は見そこなひをして居る。私などが適材でないかも知れないが、適所に居る、若しも適材だなどと思つて役人などになつて居つたならば、果して適所として居たかどうかは疑はしい。世の中に風呂敷を拡げるのは、其の人が決して適材ではないのであるに拘らず、自分では適材だなどと思つて居るので遂に実行と云ふことが出来ずに仕舞ふ。併し、如何に適材が適所にあつたとしても、遠慮が過ぎて、ツイ勤めないものなどもあるが、之れなどは遺憾なことである。先づ政治上から云へば、上総理大臣より、下は区役所の吏員に至るまで、果して適材を適所に配して仕事の能率を挙げるやうにして居るであらうか。即ち内務大臣は内務大臣として適材が適所にあるか、大蔵大臣は大蔵大臣として適材が適所にあるか、若し、これが行はれて行けば平仄が揃つて順序能く進んで行くものである。さうでないと其処に色々な支障が出来て、思ふやうに仕事が進行せぬことになる。
 それから、自ら偉くなる、悧巧になると云ふのが色々支障をなすものである。殊に悧巧ぶる、悧巧がると云ふことは今の世の中に甚だ多い。故に何かあると何か小理窟をつけて見たり、何かやつて見たりするのがあるが、之れは甚だ悪い。道話に、五人の家族のある家は色々理窟を言い合つてやかましいが、十人の家族のある所は誠に平和に治つて行つて居る。之れは、前のは偉い人ばかり集つて居るに反し、後のは愚かな者ばかり集つて居るからだと言ふのがあるが、こんな悧巧は甚だいけない。

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デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)