デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一

11. 徒愛、徒忠は人に益がない

とあい、とちゅうはひとにえきがない

(66)-11

子曰。愛之能勿労乎。忠焉能勿誨乎。【憲問第十四】
(子曰く。之れを愛する能く労するなからんや。忠にして能く誨ゆるなからんか。)
 本章は、徒愛、徒忠はその人に益ないことを言つたものである。そして愛は独り子ばかりではなく、忠も亦独り君のみに関したことではなく広い意味である。
 人を愛するといふことは、労はることばかりではなく、又無暗に慰安を与へたり、安楽にのみしようとすることではない。寧ろその人に勤労を与へるやうにしなければならぬ。例へば学校へ通ふのに、車に乗せると云ふよりも徒歩で通はせるやうにする。又、学校から帰つたならば復習をさせると云ふやうなことが賢母としての義務である。徒らに可愛がつて勤労を与へないのは、所謂姑息なる愛であつて真の愛と云ふことが出来ない。
 説苑に「孟母機を断つ」と云ふことがある。之れは孟軻三歳で父を喪つたが、母の仇氏賢徳があつて軻を能く撫育した。曾つて軻が学んで家に帰つて来たので、母は之に問うて汝の学問はどれ程の所まで進んだかと。軻は旧の通りであると云つた。すると母は直ちに刀を以て機を断つた。軻は惧れてその訳を問うた。母は之れに答へて、汝が中途にして学を廃すのは、丁度私がこの機を断つのと同じであると教へた。それから軻は日夜学を勉めて止まなかつた。それが為に遂に大賢として世人の尊崇する所となつて居るが如きは、徒らにその子を愛しなかつた、即ち勤労せしめたが為に、斯の如き結果を得たのである。
 故に、真に家庭の能く治つた所では、母は子供に対するには必ず徒愛ではない。相当の勤労を与へてその心志の堅固を期しなければならぬ。俚諺に可愛子に旅をさせうと云ふのは勤労を与へよと云ふことである。旅に出ると家庭に居るやうな我儘も出来ず自分で自分を処置しなければならないから、自ら相当の勤労をする事になるからである。
 苟も人に忠実を尽すには、徒らに其の意に従順するやうな御機嫌取だけではいけない。若しその人にして放縦に流れようとした場合には之れを教誨し善導しなければならぬ。平清盛の放恣を諫止した重盛は父に忠であつたと云ふことが出来る。故に真の忠は、人の為、君の為を思うて、教悔し善遷せしめなければ止まぬ所にある。

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デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)