デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一

2. 専制政治の弊と多数政治

せんせいせいじのへいとたすうせいじ

(66)-2

子貢問曰。郷人皆好之。何如。子曰。未可也。郷人皆悪之。何如。子曰。未可也。不如郷人之善者好之。其不善者悪之。【子路第十三】
(子貢問うて曰く。郷人皆な之れ好む、如何。子曰く、未だ可ならず。郷人皆な之れを悪む、何如。子曰く、未だ可ならず。郷人の善者は之れを好み、其の不善者は之れを悪むに如かず。)
 本章は輿論は必ずしも正しいものでないことを述べたものである。
 子貢、孔子に問うて、一郷の人が皆その人となりを愛好したならばどうであらうか。孔子は之れに応へ、如何に一郷の人が皆愛好したからとてそれでよいものでない。然らば一郷の人が皆之れを悪んだならばどうであらうか、と問うた。孔子は、郷人の善い者は好いと云ひ、悪いものは之れを悪むと云ふに越したことはないと言はれた。
 一郷の中には善いものも居り、悪いものも居るのであるから、善い者から善いと言はれ、悪いものからは悪いと言はれるやうにならなければならぬ。今三島先生の註によると、輿論は必ずしも正しいとは思はれないから、ある時代には尭舜を悪み、桀紂を好いとするものがないこともあるまい。故に今日投票を用ゐて人を挙ぐるに公とならないのは之れが為である。故に、多数を以て決をとるのは凡人の為であつて、若し上に公平無私の君子があると、必ずしも輿論を採用する必要はないと論じて居る。
 この説によると、今日の多数政治を喜ばないので専制政治がよいと云ふことになるが、これはどうか、甚だ疑問とせざるを得ない。なる程、上に君子人があつて公平無私の政治を行つたならば、或は三島先生の想像するが如き、立派な政治、正しき政治が行はれるかも知れないが、君子と言はれるやうな人は何時も居るものでない。故に公平無私の政治が何時行はれると極つて居るものでない。
 今日の多数政治、即ち立憲政治の行はれたのは、専制政治の弊害を牽制せんとして生れたもので、絶対に善い政治が出来るものとされたのではない。換言すれば、多数政治は専制政治よりも悪い政治が行はれることは時にあるが、併し専制政治の弊を出さないことが出来る。殊に多数政治でも、上に正しきものが居つた場合には、正しき輿論を作つて政治を行ふといふことにもなる。故に一概に多数政治を貶することは出来ぬ。

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デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)