5. 木訥とアメリカ人
ぼくとつとあめりかじん
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子曰。剛毅木訥近仁。【子路第十三】
(子曰く。剛毅木訥仁に近し。)
本章は仁を行ひ得る人に就て説いたのである。(子曰く。剛毅木訥仁に近し。)
自ら屈せず、自ら忍び得るものは外飾がないから、仁を備へて居ると云ふのである。けれども粗樸質実の人は必ずしも仁を備へて居ると云ふ訳ではないが、かう云ふ人は仁を備へて居ることが多いと云ふことである。曩にもあつた巧言令色鮮矣仁の反対を言つたものと思へば同じことである。
剛毅木訥仁に近しの人は至つて少い。若し剛毅木訥も過ぎると、自己のみ主張することになつて調和の出来ないのは、浮薄な人の自説を主張すると同じ処がある。
私は欧洲の人とは多く会つて居ないが、アメリカ人とは度々会つて知つて居るが、アメリカ人は能く衆に従ふと云ふ念が盛んであるやうに思はれる。尤もその説の自己と大変に違ふ場合にははつきり断るが他のものは成るべく調和しようとする。私はある事柄二つについてサンフランシスコで、アメリカ人の多数に向つて賛成を求めたことがある。然るに一つには賛成をされたけれども、一つに反対をされたことがある。
それは明治四十二年渡米実業団として渡米した際で、多くはサンフランシスコ、即ち太平洋沿岸に於ける六大商業会議所に招待された時で、それから太平洋よりもつと東に廻つたが、その期間は九十日程を要した。シヤトルには九月一日に着いて十一月三十日にサンフランシスコに着いたからである。
その時には実業団一行を代表しまして、今此処でアメリカと日本とお別れするのであるが、誠に別れ惜しい、別れるのは惜しいが、又お礼の申し様もない。併し我々は折角此処まで来たものであり、又お世話にもなつたのであるから、未来に於てどうかかうありたいとか云ふやうなものを、何か後に継続的に残す工夫はないであらうか。
若し日本側の希望する要件を申さうならば、願くは、之れを日米両国の間に永久的に何か接続する機関を常置する必要はないか。現に領事なるものがある。けれども商売人には親切にすると云ふことは出来ない状態にあるから、特に商務官を置いて、吾々と意志の疎通を図つて、商工業に忠実ならしむるために、両国政府に建議して、之れを設置せしむるやうにするがよいと云ふことであつた。
次はアメリカの六大商業会議所と、日本の六大商業会議所との間に連絡をとり、アメリカではサンフランシスコ、日本は東京に総代を置いて毎月一回はお互に通信し合ふと云ふ案を提出した。
処がアメリカでは、政府の力によつて商務官を置いて之れと協同的に仕事をすると云ふことは、日本としては或は必要があるかも知れないが、かういふ機関を置くが為に却てうるさくなつて、仕事の敏活を欠くやうなことになるから、到底賛成することは出来ない。けれど第二の案は最もよいことであると思ふから賛成すると云つて賛成して呉れた。
かうして決した両国の商業会議所の連絡通信も、日本が能く通信しない為に遂に有名無実のものになつて仕舞つたが、大正四年には日米関係委員会なるものが成立し、商工業は勿論のこと、政治上のことも通信し合ふことになつた。
アメリカ人はかうしたことを相談するにしても、はつきりと自分の意見を発表し、賛成するものは賛成し、不賛成するものは不賛成して仕舞ふ。処が日本人になると、どうもその態度がはつきりしない点が多いやうに思ふ。これなどは木訥仁に近しの方ではないと言はなければならぬ。
- キーワード
- 木訥, アメリカ人, アメリカ
- 論語章句
- 【子路第十三】 子曰、剛毅・木訥近仁。
- デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)