デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一

1. 雷同心と調和心との異動

らいどうしんとちょうわしんとのいどう

(66)-1

子曰。君子和而不同。小人同而不和。【子路第十三】
(子曰く。君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。)
 本章は、人と交るに和同の別を得なければならぬことを説いたもので、短いけれども剴切なる章句であるといふべきである。
 君子は人と交るに能く調和して相戻るやうなことはないけれども、衆と共に附和雷同するやうなことはない。小人は之れに反して、衆と共に雷同することはあるけれども、相調和することはないのである。
 何となれば、君子は自己の意見を立派に有つて居る。即ち一見識を有つて居るので、多数の人が多くある事に賛成することがあつても、自己の意見に合はなければ、勝手に之れに賛成することはないのである。けれども、人としては社会に生存して居る以上は、自己の意見のみを行ふことは出来ない。故にある点までは相調和して、共同一致の実を現はす必要がある。
 処が小人は附和雷同するので、人を相手として騒ぐことになる。この雷同心なるものは、調和心と同じく多数一致することであるが、実は似て非なるものである。即ち、調和は義の為、雷同心は利の為にする。故にある時は多数と一致することがあつても、直ちにさうでなくなることがある。
 そのやうな例の甚しきものとしては、電車にぶら下る人が多いので知られる。即ちある人が電車にぶら下つて居ると、その危険であるとことも忘れて、吾も吾もと人の真似をする。さうするとこの状態を見て更にぶら下るものが多くなるのである。
 孔子の時代に於ても、このやうな状態であつたが、今も矢張りその通りで、あの人がかうして居るから私もかうすると云ふ人は随分多いのである。この短い章句の中に能く人間の弱点を道破されたと云ふのは、実に敬服に値するものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)