デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一

22. 人を容るるの雅量あれ

ひとをいるるのがりょうあれ

(66)-22

公叔文子之臣大夫僎。与文子同升諸公。子聞之曰。可以為文矣。【憲問第十四】
(公叔文子の臣、大夫僎、文子と同じく公に升《のば》る。子之れを聞いて曰く、以て文と為すべし。)
 本章は文子の行がその諡にかなふと云つて称したのである。
 公叔文子の家臣の僎なる者の賢であることを文子が知つて居たから之れをその君に推薦した。為に僎は文子と肩を並べて朝に昇ることが出来た。孔子之れを聞いて、斯の如き行をなしたことは、その諡の文にかなふと言はれたのである。春秋の時代には儀礼が非常にやかましかつたので、文と称するのは軽々しくすることが出来なかつた。然るに、公叔文子が能くこの人を知り之れを薦めたのは、己れを忘れて私無く、君の為に賢を得ることを努めたもので、大いに称揚してよい。即ち文の諡があつても決して之れを恥かしめるものでないと言つた。
 御維新頃でも能くこのやうな例はあつたやうである。けれども多くの人は却〻之れを能くやることが出来ないやうである。尤も始めにはその人の才能を見出し、これならば相当の働きをするであらうと思つて之れを薦めるが、併しその人が段々才能を発揮して来て、己れを凌ぐやうになると之れを嫉んだり、貶したりする人が多いものである。
 私は能くは知らんけれども、木戸公は能く人を引き立てた徳の高い人のやうに思はれる。如何にその人がえらくなつて来ても、人を忌むとか嫌ふとか云ふやうなことはなかつたやうである。このやうなことは余程徳が高くなければ出来ないものである。
 木戸公の後進からえらい人の出たのも、之れが為であらうと思ふ。井上公にしても、伊藤公にしても皆木戸公に引立てられて、そしてその長所を発揮したのである。自分でも之れを助けてやつて居るけれども、之れなどは少しも現はさない。良いことは後進の者がやつたやうにして居る。自分は彼には及ばんと云つて、自分を空しうする。其処にその人の人格の高さが窺はれる。
 例へば憲法を草案するにしても、木戸公は憲法を何も知らん筈はないけれども、之れは伊藤がよいから伊藤がやれ、財政は井上がよいから井上がやれと云ふ風にした。之れなどは木戸公の徳望の高く人を容れる雅量もあつたよい例であらうと思ふ。之れに反する者は人の短所のみを責めたり、彼などはどうして吾に及ぶものかなどと云ふ。このやうでは到底人才を薦めることが出来るものではない。
 一体に知識、才能のある人は、俺が俺がと云ふやうに我を出したがる。一寸したことで説をなした場合、説が二つになる場合、己れのみえらいやうなことを云ふ。人才を働かせるやうにするには、徳望も大事なことであるけれども、人を容れる雅量がなければならぬ。木戸公はそのやうな人と称すべきであらう。三条公も自分の働きよりも人を用ゐるといふ風だつた。

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デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)