デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一

8. 善言者と有徳の士

ぜんげんしゃとうとくのし

(66)-8

子曰。有徳者必有言。有言者不必有徳。仁者必有勇。勇者不必有仁。【憲問第十四】
(子曰く、徳ある者必ず言あり、言ある者必ずしも徳あらず。仁者は必ず勇あり、勇者は必ずしも仁あらず。)
 本章は、心の内に蔵して居るものは、外に現はるるのは当然であるが、外に発したものでも、内にないものもあると云ふことである。有言者は善言を出すことを云ふのである。徳とは道徳の徳で、韓退之の原道に「博く愛する、之れを仁と謂ふ。行つて之れを宜しくする、之れを義と謂ふ。是れに由つて之く之れを道と云ふ。己れに足つて外に待つなき、之れを徳と云ふ」の徳である。
 故に徳のあるものは、己れに満足して居つて人に助けて貰ふことを考へないから、平素温かな態度で居ることが出来る。かうして徳を積んで居れば、その英華が自ら外に発する。即ち徳あるものは必ず善言を発するものである。けれども、善言を出しても徳のある人もあり、徳のない人もあるからである。巧言令色鮮矣仁とあるのも、善言者は必ずしも有徳の士ではないことの証拠となるものと思ふ。茲に云ふ必ずしも徳あらずと云ふことは、屹度徳がないと云ふ意味ではなく、徳がないこともあると云ふ意味である。
 仁者は広い意味の仁で、博く愛する之れを仁と云ふと同じで、仁者は身を奮つて救済するに勇気があるものである。けれども勇者は必ずしも仁者と云ふことが出来ない。勇気は外に飾ることが出来る。又、為にしようとして見せかけることもある。このやうな場合は終始遭遇する事実であるが、之れは真正なる仁を行ふのではなく飾つたものである。本当に仁を行ふ心のあるものは活気があるから、勇者であるけれども、人に見せよう、為にしようとするのは、形は仁であつても、仁の趣旨とは甚だしく違ふものである。故に勇あるものは必ずしも仁者であると云ふことが出来ない。
 茲に仁を行つたからと云つて、それが本当の仁者であるかどうかはその人の常の行動を見て居れば直ちに分る。今日の如く災害の出来た場合に義金することがあつても、之れは果して本当の仁を行ふのであるか、人に見せるのであるか、為にするのであるか、能く判る。

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デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)