デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一

4. 原市之進の泰恭

はらいちのしんのたいきょう

(66)-4

子曰。君子泰而不驕。小人驕而不泰。【子路第十三】
(子曰く。君子は泰にして驕ならず。小人は驕にして泰ならず。)
 本章は泰と驕とを説いたものである。泰は安舒にしてやすらかなること。驕は舒肆にしてほしいままになることである。
 君子はやすらかにして従容迫らない風があるが、而も自ら尊大ではない。小人は之れに反して、驕であつてやすらかな処がないと説かれたのである。
 人は泰にして驕でないやうにありたいものである。処が、世間の多くの人々は、自ら優れりと思つて多少自らを恃みとする風がある。若し之れを称讃でもしようものなら、直ちに尊大になつて自分を鼻にかけたがる人が多いものである。
 かう云ふ風になると遂頑固になつて自分のみエラクなるので、自ら度量も狭隘になつて、人の説などを容れるやうなことをしない。即ち自らを誇つて自説のみ主張することになるが、これは決して君子でない。君子は知つて居つても、決して自分のみエライやうな自家広告をしない。謙遜して決して驕らないが、併し謙遜のみして居つてもいけない。この謙遜にも自ら程度のあるを要する。若しさうでないと自屈になつて、自らを卑下することになる。
 現在の人に就て何人は泰、某は驕と云ふことは憚るけれども、政治界にしても財界にしても、有名な人で泰ではなくして驕である人は可なりにあるやうに思はれる。
 原市之進は一橋家に仕へた人で、藤田東湖などと同時代である。先きに弘道館の先生をして居たが、後幕府の人となり、年五十で欧洲に行つた。この人は泰にして而も恭の人であつた。文章も書き、詩も一通りは知つて居ると云ふ人で、能く一橋公を輔佐した。温かさを有つて居つた人で、喜怒哀楽を色に現はさないと云ふ種の遠慮深い処があつた。この遠慮深いと云ふことが陰険であると誤解されて、遂に刺されたが、実に惜しい人である。この人などは泰にして少しも驕なる所はなかつた。
 又、慶喜公なども、矢張りそのやうな風の人であつた。何事も知らんやうであつて而も何事も知つて居つた。それで居て決して驕慢の態度が少しも現はれなかつた。
 尤もその風采、言語、応対から、安つぽく見えても困るが、君子は須らく泰にして恭でなければならぬ。処が中には知らんことも知つた風をしてエラがつて居るものも多い。私たちでもツイそのやうな風になることもある。これらは大いに慎まなければならぬことと思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(66) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.575-592
底本の記事タイトル:三六六 竜門雑誌 第四三一号 大正一三年八月 : 実験論語処世談(第六十四《(六)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第431号(竜門社, 1924.08)
初出誌:『実業之世界』第20巻第9,10号,第21巻第1-3号(実業之世界社, 1923.09,11,1924.01,02,03)