デジタル版「実験論語処世談」(14) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.60-66

 私は是まで談話致したうちにも申述べ置ける如く、初め郷里を出る時には、眼中ただ国家の政道あるのみで、何が何んでも幕府は之を倒してしまはねばならぬと考へ、自分とて又大名に成り得ぬまでも、兎に角国政の要路に立たうといふぐらゐな国士の気分に充ちてたので、その後、周囲に起る事情の変動に余儀なくされて一橋慶喜公に仕へ、更に王政復古の御親政になつて以来、朝廷に仕へる身となり、続いて当初の所志とは打つて変つた実業界に没頭するに至つても、政治にこそ思ひを絶ちはしたれ、期する処は国家の盛運を招来せんとするにあつたので、一身の利害なぞは、素より念頭に置かなかつたのである。随つて身は実業界にあつても財産を蓄めようなぞとの気を起した事は一度もなく、死んだ跡のことなど一切考へず、子孫の為に美田を買ふを深く恥辱とし、宵越しの金銭なんか使はぬといふほどの気前であつたものである。
 ただ経済界に立つて働くには、無資産では世間から信用せられず、それ貸して呉れ、又も貸して呉れと、自分が生活の資を他人に仰ぐやうでは駄目だと考へたので、経済界に立ち他人の金銭を預けられたり委任されたりするに足る信用を繫ぎ得る丈けの蓄財を致したるに過ぎぬのである。それが私の家産である。今日とても、それ以上に財産を蓄めようなぞとの気は露些かも無いのである。当初から財産を蓄める気になりさへしたら、或は今日までに大財産家に成れて居つたのかも知れぬが、其気にならずに通して来たので、今日の私は貧乏人より少しばかり財産があつて、それで経済界に於ける信用を維持し、国家の為や他人の為に、多少自由に働き得るといふに過ぎぬのである。子孫のことを思はず、家系のことなぞをも心に懸けなかつたものだから、素より家憲などを作製して置かなかつたのであるが、それでも将来困るだらうと思つて、子孫のことなぞに付多少考慮を費すやうになつたのは、穂積陳重氏を婿にしてから以後のことで、同氏より種々注意を受けた結果である。
 三井家中興の祖とも称すべき三井宗竺といふ人が、三井を六軒に分家し、それが殖えて今日の十一軒に相成つたものであることは既に申述べ置いた如くであるが、富豪が家を分けると共に其家産までも之を幾つかに分け、各々夫々分立した資本にしてしまうのは、大に考慮せねばならぬ事だらうと思ふのである。一体、富豪の家産は之を一つに纏めて置く方が一家の利益になるものか、将た之を分割して各分家に割り与へた方が利益だらうか――此の点に就て考へて見るに、第一資本と申すものは纏つて居ればこそ、その効率を発揮して有用な道にも使ひ得るが、之を分割してしまへば其効力の薄くなるものである。のみならず纏つた資本を一且分割してしまへば、其配分を受けた家に何か蹉跌でも起つた時に、有無相通じて済ふといふ事が一寸億劫になるものである。傍々、家産は之を分割せずに、同族共有の一つの纏つた資本に致して置き、ただ之より生ずる利潤だけを同族間に分配するのが、最も当を得たる法であらうかと私は思ふのである。
 却説、前にも申上げた通り、私は一切、従来子孫の事なぞに考慮を費さず、ただ経済界に立つて働く為の信用を維持し得る丈けの資産を蓄へたのみで、其他宵越しの金銭は費はぬぐらゐの気前にして居つたのであるが、穂積陳重氏を婿にしてから、種々と注意を受けて見るとなるほど私が死んでしまつた後で、仮令貧乏人より少しばかり多いぐらゐな些少の家産と雖も、之が同族間に分捕を争ふ標的になつたり、或は宗家に何時の時代にも聡明なる戸主が現れると極まつてるものでも無いから、いろ〳〵混雑を惹き起すやうな事情を生ずるに於ては、却て同族間の親和を欠く事ともなり、甚だ面白からぬ儀であると考え付いたので、私も遂に意を決して渋沢同族株式会社なるものを組織し同族のみを其株主とし、私の家産は之を分割せずに渋沢同族株式会社株主一同の共有とする事に定め、又渋沢家同族の遵守すべき家憲をも私が制定したのである。
 渋沢同族株式会社は大正四年三月の設立で、資本金を三百三十万円とし、総額払込済になつて居る。これが即ち私の家産で、これより生ずる利潤のみを同族の間に分配するやうに致してある。利潤分配の歩合に就ては、宗家に最も多く分配する事とし、以下夫々族縁の遠近に応じて率を加減し得るやう、同じ渋沢家同族の者でも同族株式会社の持株数に多少がある。同族内の各家は、その持株数に応じて年々受くる利益配当金を勝手に処分し得らるる規約で、受けた配当金の用途に就ては、何者よりも干渉せられず、それで謡曲を楽むなり、碁をやつて試るなり、其辺は総て自由勝手である。又、同族間に財政上の蹉跌をした者がある時には、之を恢復させるに就ての方法も定めてある。
 渋沢同族株式会社の社長には宗家の当主が上任するのを以て原則としてある。幸に宗家の当主が、同族株式会社の社長たるに足る資格のある者ならば無論結構だが、永い年代のうちには社長たり得る資格の無い不敏不肖の者が宗家の戸主にならぬとも限らぬ。その際には、同族中より適当の人物を互選して社長を挙げることに致してある。斯くして置けば私が仮令喪くなつた後でも、永遠に同族相親和して暮してゆけるやうに思はれるが、然しこれで渋沢一家は絶対に安固だといふわけのものでも無い。同族各家の当主がみな似たり寄つたりの者で、其間に大した優劣の差が無い時代には万事穏かにも進行うが、永い時代には必ず其間に頭抜けて優秀れた者と劣つた者とが現れるに相違無い。そんな場合ともなれば、如上私が永久的に定めて置いた規則も、其の通りに実行せられず、千百の規約があつても忽ち蹂躙せられてしまふやうにもなる。私とて其点は充分に承知して居る積である。私は家憲の外になほ家訓と申すものを明治二十四年五月に作つたが、これは子孫教養の為にするもので、三部に分れて居る。私が必ずしも其の通りに行つて、自ら之が師表たり得るものだとの自信を有するわけでも無いが、或は青年子弟諸君修養の一助にもならうかと思ふので左に掲げることにする。
 私が昨年渡米致したる際に、日本に万国日曜学校大会を開催する件に関し、米国に於て専ら斯の件の肝煎を致し居るピツツバーグの缶詰王ハインヅ及びフヰラデルフヰアのデパートメント・ストア王ワナメーカーの両氏に面会せる顛末は、帰朝後の談話中にも詳細申述べ置ける如くであるが、欧洲戦争でも終結したら日本で万国日曜学校大会を開催するように致さうとの議は、一昨年瑞西に開かれた同大会で決せられた事なさうで、耶蘇教側は熱心に其の実現を希望し、大隈首相なぞも之に同意して開かせる事にしようとの意見を持たれて居る。然し愈〻日本に於て開催することになれば、米国からばかりも一千人の来会者があり、それに欧洲からの二千人を加へると総計三千人許りの来会者を見る予定である。之れ丈け多数の外国人に一時に押しかけられたんでは、折角日本に万国大会を開いても、第一に来会の外国人を悉く収容し得る丈けのホテルの設備が無い。又、三千人の多数を一堂に集め得る丈けの会堂も無い。麺麭だとか牛乳だとかいふものも、三千人の来会者をして充分満足せしめ得るまでに供給し得らるるや否やさへ疑問である。
 殊に万国日曜学校大会の来会者には、男子よりも婦人が多いといふことである。婦人は何処の国でも同じ事で、却々取扱方の六ケしいものである。それ等の人々が大会を終へて各其本国へ帰つてから、日本に往つて見たが、碌々眠ることもできず、パンも噛れず、牛乳も飲めなかつたなぞと、土産話の序に言ひ伝へられでもしたら、折角骨を折つて万国大会を日本に開いても、之によつて日本を紹介する便を得るどころか、却つて従来贏ち得た日本の評判までも悪くする事になる。それでは、甚だ困るから、日本に万国大会を開く事だけは御引受するが、来会者の数を制限して成るべく少数とし、又来会者は之を買切りの汽船に搭乗せしめて、日本来着後もホテルに宿泊せず、其汽船を宿泊所とし、そこから東京の大会に出席するやうに取計つてもらいたいものだといふのが、私よりハインヅ及びワナメーカーの両氏へ依頼に及んだ件である。これに対して、両氏とも承諾の旨を答へられたが、同時に又私共の間には、いろ〳〵と道徳上に就ての談話もあつたのである。
 ハインヅ及ワナメーカー両氏より、何故私が耶蘇教信者でも無いのに、万国日曜学校大会のことに就き斯くまで幹旋するかとの質問を受け、之に対し私が孔夫子教の立場より国民道徳向上の一助にもならうかと、日曜学校大会を日本に開く事について幹旋[斡旋]しつつある次第を答へたことは、前に談話した中に詳しく述べてあるが、ワナメーカーの如き、私と談話をした始めの間は耶蘇教を信ぜぬ東洋人には到底道徳の事なぞは解らぬもの、信念なぞといふものの無いものと心得居られたらしく、談話の間に稍〻当方を侮辱したやうな意味の言葉をすら漏らした程である。然し、私が物質文明の進歩と共に精神文明の必要なる所以を説き、目下の急務は道徳上の向上を計るにあるを論じ、私の奉ずる孔子教も耶蘇教と等しく、一身一家の利益のみを念とせず、他人の利益幸福をも図らねばならぬと教へるものであると述ぶるや、漸く私の意のある処を諒解し、両氏とも其期するところが私と同一であるのを知つて、大いに悦ばれたのである。要するに古今東西何れの時代何れの邦にあつても、人は自分の利益幸福のためにのみ働かず、他人の利益幸福の為にも働かねば人は決して栄えるもので無い。此の点に於て私もハインヅもワナメーカーも皆同意見である。青年子弟諸君は、篤と此の消息を心得られて、私利私慾にのみ走らず、他人の為国家の為にも力を尽すやうにして戴きたいものである。
 ワナメーカーが、その際、私に改宗して耶蘇教になれよと勧め、私が之に対し何の返答をも致さず帰つた事は――これも、私が帰朝後の談話中に申述べ置いた処であるが、私は最近に於て、その際の改宗勧告に対する返辞の手簡をワナメーカーに送つたのである。その趣旨は――私も今では既に相当の老人であるから、これから強ひて事々しく耶蘇教に改宗するでもあるまい。貴卿の信奉する御宗旨は、「己れの欲する処を他人に施すべし」と教へるので、貴卿が其の可しと信ずる耶蘇教を私へ御勧めになるのも尤もの次第だが、私の信ずる孔子教では「己れの欲せざる処を人に施す勿れ」と教へる。こゝに貴卿と私との立場に相違がある――といふやうな意味のもので、私より送つた斯の手簡を受取つたワナメーカーは、果して如何な感じを起して居るだらうか知りたいものである。
 今日でこそ、仁義道徳と算盤金儲けの商売とがその根本に於て違背する処のあるやうに想はれて居るが、決して違背するもので無いのである。又実際に於ても、尭舜禹湯文王の頃までは、算盤と道徳とは決して矛盾するもので無かつたのである。これは当時、まだ行ふ人と教へる人とが分業にならず同一人で、教へ且つ行ひ、行ふ処の人は是教へる人、教へる人は是行ふ人で、尭舜禹湯文王は自ら教へて自ら其教旨を実践躬行し、行ひ得ざる処を教へたり、教へたる処に反して行つたりしなかつたからである。
 然し、星移り年変り、年代が経過して文明の進歩すると共に、教へる人と行ふ人との間に分業の劃立を見、実行の人必ずしも仁義道徳の教師ならず、仁義道徳の教師必ずしも実行の人ならず、その間に何の聯絡もつけずに、実行の人は仁義道徳を念頭に置かず、仁義道徳の教師は実生活を考慮せず、互に自分勝手な気儘な事ばかりを教へたり行つたりするやうになつたので、遂には今日の如く仁義道徳と金儲の算盤との間に又なき溝壑を生じ、互に相違背するものであるかのやうに世間からも両者を視るまでになつたのである。この傾向は、孔夫子が政道の実際に当る事が能きず、たゞ教へるのみの人として終られてしまつたのが抑〻の発端で、孔夫子の時代頃より仁義道徳を説く人と、実際の世間に当つて経営する人とは別々のものになつて来たかの如くに思はれるのである。
 この傾向は宋朝に入るに及んで殊に甚しく、周惇頤、張横渠、二程子の諸家其他の儒者現れ、日常実際の処世法よりも、寧ろ却つて性を説き理を論ずるに重きを置き、道徳論は徒に思索を弄ぶ倫理哲学の如きものになつてしまひ、人間日常の処世に何の関聯をも存せざるの観を呈するに至つたのである。この弊は朱子の時代に至つて更に其極限に達し、実際の活用よりも理論に走るを専らとしたのであるが、朱子自身はその説くところを実践躬行し、自ら律する頗る厳、教育を振興して人間実生活の向上を計らんとするに意を致されたかの如くに見受けられる。
 鎌倉時代には、支那に留学した者も大分多かつたのだが、当時の留学生は主として僧侶で、而かも最明寺時頼の如き専ら禅宗に帰依し、禅林の興隆に志が篤かつたものだから、支那より帰朝した留学生の伝へたところのものも亦、悉く禅に関係ある学風ばかりであつたのである。その結果、禅宗は愈〻全国を風靡して其勢ひ当るべからざるものとなり、南北朝時代に入るや、北朝の暦応四年足利尊氏の代に於て京都と鎌倉とに禅林五山の制を布かるるまでになつたのである。
 我が朝の鎌倉時代は、支那に於ける南宋の末から元の初期に当るのである。此の頃、勿論支那に於ても禅宗が盛んであつたのだが、一方又、宋末より元の初期にかけては実に朱子学の横溢を見た時代で、輔漢卿、真西山など朱子派の学者は宋末に現れ、又元代には劉静修の如き朱子学者も現はれて居るのである。
 日蓮上人が「立正安国論」を著して、元の忽必烈の軍が本邦に来襲すべきを予言痛論したのは日蓮が法華経の功徳によつて之を啓示されたのでも何んでも無い。当時支那に留学して帰朝した僧侶の談話であるとか、或は又その齎らし帰つた書籍等によつて形勢を察知し、宇内席巻の壮志ある忽必烈は必ずや遠からず日本にも押し寄せ来るべきものと判断した結果である。かく、支那の事情が手に取る如く日本に知れ渡るほどになつて居つた時代に、その頃支那全土に横溢して非常の勢力であつた朱子学が日本に伝へられず、徳川時代に入つてから初めて行はるるやうになつたといふのは、如何にも怪しむべきである。或は禅宗と共に鎌倉時代に於ても朱子学も業に已に日本へ伝へられて居つたが、当時禅風が天下を吹き捲り、上には禅林の興隆に志篤き時頼の如き執権があつたりなぞしたものだから、恰も欧洲の暗黒時代に於て、学問が亜刺比亜[亜剌比亜]の奥へ逃げて行つて隠れ潜んで居つたやうに、朱子学も日本のうちに何処かに徳川時代の来るまで、隠れ潜んでたものであるやも測り難いのである。然らずんば徳川時代になつてから、急にヒヨツコリと藤原惺窩によつて、朱子学が初めて顔を出して来さうな筈がないのである。然し惺窩以前に於て誰が初めて朱子学を日本に伝へたか、その伝へられた朱子学が藤原惺窩によつて祖述せらるるまで、日本の何処に潜み隠れて居つたものか、その伝統を明かにすることは今日となつては最早や容易の業では無いのである。
 徳川家康が豊臣家の没落後、天下を一統して封建制度を布くに当り治国平天下の道を何に求めたかといふに、それは教学であつたのである。即ち、仏教と儒教とにより、人民をして其適帰する処を知らしめ民心の平静を維持せんとしたのである。仏教の方で家康の重用したのが、奥州の会津で生れ、曾て武田信玄に招かれて三千の僧と議論を戦はし、一座を其の滔々たる雄言によつて圧した上野東叡山寛永寺の開祖天海僧正である。天海は家康の意を体して人心を指導することに随分よく骨を折つたもので、私が読んだ天海僧正自記の記録中には、一年に九十余度の法筵を開いて説教したことさへあると記されて居る。
 儒学の方で家康の重用したのが則ち藤原惺窩である。惺窩は播州に生れた人であるが、幼より神童を以て目せられ、一時は剃髪して僧となつたこともある。然し、その志は当時より既に儒学にあつたのである。惺窩が太閤秀吉の朝鮮征伐に際し、小早川秀秋の客となつて肥前にあつた時が家康との初対面である。その後、惺窩は明に渡航し、儒学を修めんとするの志を起し、便船を待つて薩摩にあるうち、偶然のことより同地方に広く行はれて居つた「大学朱熹章句」を読み、甚だ意に適ふ処があつたので明に渡航するを廃め、薩摩の島津日新斎が明より取り寄せて居つた朱子学の書をもらひ受けて研究し、遂に彼の如き朱子学の大家になつたのである。これによつて見れば、薩摩は支那との交通に便利があつたので、惺窩以前に早く既に朱子学の行はれて居つた地らしくも思はれる。
 然るに、一方京都にあつた林羅山――この人も惺窩と同時代の頃に現れ、後に薙髪して道春と称したのであるが、建仁寺に出入して諸書を跋渉する間に程子や朱子の書を披見して、六経の本旨を伝ふるものは程朱以外には無いといふので、是又朱子派の学説を祖述したのである。これによつて見れば、朱子学は単に支那との交通が便利であつた薩摩方面のみならず、京都にも藤原惺窩以前に、業に已に朱子学が伝へられてあつたものと視ねばならぬのである。林羅山は後に至り、惺窩が京都に上つて洛北に隠れ、専ら朱子学を祖述するを聞くに及んで景慕して其弟子となり、惺窩も亦、羅山の頭脳明晣なるを愛し、容れて高弟としたのである。
 家康は関ケ原の乱も平いで愈〻天下を一統するやうになるや、民心を統一するには正心誠意を標榜し、仁義礼智信を説く朱子学を以て最も功のあるものだと稽へたので、斯方面に惺窩を重用したのである。
 然し、惺窩は僧侶との確執から、遂に家康の召に応じて学を講ぜぬやうになつたので、惺窩の高足にして同じく朱子学を祖述する林羅山が、曾て僅かに十八歳の弱冠にして其師に従つて来り、家康に謁したる際驚くべき博覧強記の事実を示したことがあるのを家康は覚え居られて、惺窩に代るに羅山を召し、之を博士に上せて顧問にしたのである。以後、羅山の子孫は代々朱子学の家元となり、大学頭を世襲するに至り、朱子学は徳川時代の人心を支配する上に、非常なる勢力となつたのである。新井白石、木下順庵等の如き元禄時代になつて現れた有名なる学者もみな是れ朱子派の人々である。六代将軍家宣、将軍御拝受の礼を行はんとし、先例により千代田城の御座所を改築せんとするや、時の勘定奉行萩原近江守重秀が府庫の空乏を理由とし、悪貨幣を鋳造して之を善貨幣と交換し、そのサヤによつて改築費を産み出させようとしたので、白石が断乎として之に反対し、大礼は前殿或は白書院に於て行ふべきを主張し、其後も亦萩原近江守の貨幣改鋳案に反対し、遂に之を免職にしてしまつたところなぞは、経世家として白石の職見凡ならざるを示すものであるが、是みな其根柢を朱子の道徳説に置くものである。
 徳川時代に於ても朱子派以外の儒者が無かつたわけでは無い。伊藤仁斎の如き同じく元禄時代の儒者ではあつたが、朱子を祖述せず、宋儒の学は孔孟の意に乖くものなりとして盛んに古学派を唱道したのである。然し物茂卿と称した荻生徂徠の如きは極力之に反対したものである。然し徂徠は宋儒の弊を最も甚しく承けた儒者で、仁義道徳の学は自ら国家の政道に参与する士大夫にのみ必要のものなるを主張し、農工商の如き天下の政道に干与し得ざる輩に取つて、仁義道徳の学は敢て修むる必要の無いものであるかの如くにまで稽へた人である。
 今日になつて少しく智慮ある者が稽へてみれば、士大夫にばかり仁義道徳の学は必要のもので、農工商には仁義道徳が無くつても可いものだなぞとは、苟も常識あるものの稽へ得ざることの如くに思はれるが、徳川時代には斯る思想が一般に行はれたもので、それが維新後の明治初年頃まで伝へられ、大正の今日と雖も猶ほ算盤と仁義道徳とは矛盾するものであるかの如くに思つてるものが少く無い。是に於てか私には論語算盤説なるものがある。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.60-66
底本の記事タイトル:二一三 竜門雑誌 第三三八号 大正五年七月 : 実験論語処世談(一四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第338号(竜門社, 1916.07)
初出誌:『実業之世界』第13巻第10,11号(実業之世界社, 1916.05.15,06.01)