デジタル版「実験論語処世談」(14) / 渋沢栄一

8. 徳川家康と朱子学

とくがわいえやすとしゅしがく

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 徳川家康が豊臣家の没落後、天下を一統して封建制度を布くに当り治国平天下の道を何に求めたかといふに、それは教学であつたのである。即ち、仏教と儒教とにより、人民をして其適帰する処を知らしめ民心の平静を維持せんとしたのである。仏教の方で家康の重用したのが、奥州の会津で生れ、曾て武田信玄に招かれて三千の僧と議論を戦はし、一座を其の滔々たる雄言によつて圧した上野東叡山寛永寺の開祖天海僧正である。天海は家康の意を体して人心を指導することに随分よく骨を折つたもので、私が読んだ天海僧正自記の記録中には、一年に九十余度の法筵を開いて説教したことさへあると記されて居る。
 儒学の方で家康の重用したのが則ち藤原惺窩である。惺窩は播州に生れた人であるが、幼より神童を以て目せられ、一時は剃髪して僧となつたこともある。然し、その志は当時より既に儒学にあつたのである。惺窩が太閤秀吉の朝鮮征伐に際し、小早川秀秋の客となつて肥前にあつた時が家康との初対面である。その後、惺窩は明に渡航し、儒学を修めんとするの志を起し、便船を待つて薩摩にあるうち、偶然のことより同地方に広く行はれて居つた「大学朱熹章句」を読み、甚だ意に適ふ処があつたので明に渡航するを廃め、薩摩の島津日新斎が明より取り寄せて居つた朱子学の書をもらひ受けて研究し、遂に彼の如き朱子学の大家になつたのである。これによつて見れば、薩摩は支那との交通に便利があつたので、惺窩以前に早く既に朱子学の行はれて居つた地らしくも思はれる。
 然るに、一方京都にあつた林羅山――この人も惺窩と同時代の頃に現れ、後に薙髪して道春と称したのであるが、建仁寺に出入して諸書を跋渉する間に程子や朱子の書を披見して、六経の本旨を伝ふるものは程朱以外には無いといふので、是又朱子派の学説を祖述したのである。これによつて見れば、朱子学は単に支那との交通が便利であつた薩摩方面のみならず、京都にも藤原惺窩以前に、業に已に朱子学が伝へられてあつたものと視ねばならぬのである。林羅山は後に至り、惺窩が京都に上つて洛北に隠れ、専ら朱子学を祖述するを聞くに及んで景慕して其弟子となり、惺窩も亦、羅山の頭脳明晣なるを愛し、容れて高弟としたのである。
 家康は関ケ原の乱も平いで愈〻天下を一統するやうになるや、民心を統一するには正心誠意を標榜し、仁義礼智信を説く朱子学を以て最も功のあるものだと稽へたので、斯方面に惺窩を重用したのである。

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キーワード
徳川家康, 朱子学
デジタル版「実験論語処世談」(14) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.60-66
底本の記事タイトル:二一三 竜門雑誌 第三三八号 大正五年七月 : 実験論語処世談(一四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第338号(竜門社, 1916.07)
初出誌:『実業之世界』第13巻第10,11号(実業之世界社, 1916.05.15,06.01)