デジタル版「実験論語処世談」(14) / 渋沢栄一

9. 徳川時代の儒学

とくがわじだいのじゅがく

(14)-9

 然し、惺窩は僧侶との確執から、遂に家康の召に応じて学を講ぜぬやうになつたので、惺窩の高足にして同じく朱子学を祖述する林羅山が、曾て僅かに十八歳の弱冠にして其師に従つて来り、家康に謁したる際驚くべき博覧強記の事実を示したことがあるのを家康は覚え居られて、惺窩に代るに羅山を召し、之を博士に上せて顧問にしたのである。以後、羅山の子孫は代々朱子学の家元となり、大学頭を世襲するに至り、朱子学は徳川時代の人心を支配する上に、非常なる勢力となつたのである。新井白石、木下順庵等の如き元禄時代になつて現れた有名なる学者もみな是れ朱子派の人々である。六代将軍家宣、将軍御拝受の礼を行はんとし、先例により千代田城の御座所を改築せんとするや、時の勘定奉行萩原近江守重秀が府庫の空乏を理由とし、悪貨幣を鋳造して之を善貨幣と交換し、そのサヤによつて改築費を産み出させようとしたので、白石が断乎として之に反対し、大礼は前殿或は白書院に於て行ふべきを主張し、其後も亦萩原近江守の貨幣改鋳案に反対し、遂に之を免職にしてしまつたところなぞは、経世家として白石の職見凡ならざるを示すものであるが、是みな其根柢を朱子の道徳説に置くものである。
 徳川時代に於ても朱子派以外の儒者が無かつたわけでは無い。伊藤仁斎の如き同じく元禄時代の儒者ではあつたが、朱子を祖述せず、宋儒の学は孔孟の意に乖くものなりとして盛んに古学派を唱道したのである。然し物茂卿と称した荻生徂徠の如きは極力之に反対したものである。然し徂徠は宋儒の弊を最も甚しく承けた儒者で、仁義道徳の学は自ら国家の政道に参与する士大夫にのみ必要のものなるを主張し、農工商の如き天下の政道に干与し得ざる輩に取つて、仁義道徳の学は敢て修むる必要の無いものであるかの如くにまで稽へた人である。
 今日になつて少しく智慮ある者が稽へてみれば、士大夫にばかり仁義道徳の学は必要のもので、農工商には仁義道徳が無くつても可いものだなぞとは、苟も常識あるものの稽へ得ざることの如くに思はれるが、徳川時代には斯る思想が一般に行はれたもので、それが維新後の明治初年頃まで伝へられ、大正の今日と雖も猶ほ算盤と仁義道徳とは矛盾するものであるかの如くに思つてるものが少く無い。是に於てか私には論語算盤説なるものがある。

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徳川時代, 儒学
デジタル版「実験論語処世談」(14) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.60-66
底本の記事タイトル:二一三 竜門雑誌 第三三八号 大正五年七月 : 実験論語処世談(一四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第338号(竜門社, 1916.07)
初出誌:『実業之世界』第13巻第10,11号(実業之世界社, 1916.05.15,06.01)