デジタル版「実験論語処世談」(14) / 渋沢栄一

7. 鎌倉時代より徳川時代

かまくらじだいよりとくがわじだい

(14)-7

 鎌倉時代には、支那に留学した者も大分多かつたのだが、当時の留学生は主として僧侶で、而かも最明寺時頼の如き専ら禅宗に帰依し、禅林の興隆に志が篤かつたものだから、支那より帰朝した留学生の伝へたところのものも亦、悉く禅に関係ある学風ばかりであつたのである。その結果、禅宗は愈〻全国を風靡して其勢ひ当るべからざるものとなり、南北朝時代に入るや、北朝の暦応四年足利尊氏の代に於て京都と鎌倉とに禅林五山の制を布かるるまでになつたのである。
 我が朝の鎌倉時代は、支那に於ける南宋の末から元の初期に当るのである。此の頃、勿論支那に於ても禅宗が盛んであつたのだが、一方又、宋末より元の初期にかけては実に朱子学の横溢を見た時代で、輔漢卿、真西山など朱子派の学者は宋末に現れ、又元代には劉静修の如き朱子学者も現はれて居るのである。
 日蓮上人が「立正安国論」を著して、元の忽必烈の軍が本邦に来襲すべきを予言痛論したのは日蓮が法華経の功徳によつて之を啓示されたのでも何んでも無い。当時支那に留学して帰朝した僧侶の談話であるとか、或は又その齎らし帰つた書籍等によつて形勢を察知し、宇内席巻の壮志ある忽必烈は必ずや遠からず日本にも押し寄せ来るべきものと判断した結果である。かく、支那の事情が手に取る如く日本に知れ渡るほどになつて居つた時代に、その頃支那全土に横溢して非常の勢力であつた朱子学が日本に伝へられず、徳川時代に入つてから初めて行はるるやうになつたといふのは、如何にも怪しむべきである。或は禅宗と共に鎌倉時代に於ても朱子学も業に已に日本へ伝へられて居つたが、当時禅風が天下を吹き捲り、上には禅林の興隆に志篤き時頼の如き執権があつたりなぞしたものだから、恰も欧洲の暗黒時代に於て、学問が亜刺比亜[亜剌比亜]の奥へ逃げて行つて隠れ潜んで居つたやうに、朱子学も日本のうちに何処かに徳川時代の来るまで、隠れ潜んでたものであるやも測り難いのである。然らずんば徳川時代になつてから、急にヒヨツコリと藤原惺窩によつて、朱子学が初めて顔を出して来さうな筈がないのである。然し惺窩以前に於て誰が初めて朱子学を日本に伝へたか、その伝へられた朱子学が藤原惺窩によつて祖述せらるるまで、日本の何処に潜み隠れて居つたものか、その伝統を明かにすることは今日となつては最早や容易の業では無いのである。

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鎌倉時代, 徳川時代
デジタル版「実験論語処世談」(14) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.60-66
底本の記事タイトル:二一三 竜門雑誌 第三三八号 大正五年七月 : 実験論語処世談(一四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第338号(竜門社, 1916.07)
初出誌:『実業之世界』第13巻第10,11号(実業之世界社, 1916.05.15,06.01)