デジタル版「実験論語処世談」(8) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.2-7

子曰。人而無信。不知其可也。大車無輗。小車無軏。其何以行之哉。【為政第二】
(子曰く、人にして信無くんば其の可なるを知らず、大車輗なく、小車軏無くんば、其れ何を以てか之を行らんや。)
 往昔支那で、大きな車を動かすには輗と称する横木を梶棒の端へつけて之に牛を繫ぎ、又小さい車を動かすには軏と称する鉤のやうなものを梶棒の端に結びつけて之に馬を繫ぎ、それで以て旨く牛馬を駕御して車を曳かせることにしたものだが、輗と軏とが莫ければ、如何に堂々たる車輛があつても、如何に逸れた牛馬があつても、車は一寸たりとて動くもので無い。丁度そのやうに、人に「信」が無ければ如何に才智があつても、如何に技倆があつても、少時たりとて安全な世渡りを為て行けるもので無いといふのが、茲に掲げた教訓の趣旨で、信は人の行ひに取つて扇の要の如きものである。信無くしては、如何なる事業にある人も、如何なる職務にある人も世に立つて行けるもので無いのである。
 是に於てか孔夫子は、同じく論語の「顔淵」篇に於て、子貢が夫子に対し、政治とは如何なるものか、との質問を発した時に「足食。足兵。民信之。」(食を足らし、兵を足らす、民之を信ず)。即ち民力兵力を充実し、民をして信を守らしむるのが、是れ政治の奥義であると答へられ、然らば此の三つの中で孰れが一番大事のものかと子貢より重ねて御問ひ申上げると、国には兵が無いからとて必ずしも滅ぶるもので無い、又国に食物が無いからとて必ずしも滅ぶるものでは無い。「自古皆有死」(古へより皆死あり)だが、「民無信不立」(民信なくんば立たず)と答へられ、国民若し信を守らずんば、其国家は一日たりとて立ち行くもので無い、食が無い為に死するのは生きとし生けるものの一度遭はねばならぬ運命に遭ふ丈けのことであるが、国民に信なき為国家の陥らねばならぬ亡国の運命は、是れ自ら強ひて招く禍であると仰せられたのである。
 孔夫子が、人の守るべき道の中で最も重きを信に置かれたことは、是までに既に申上げた所によつても、亦其他の章句に照らしても明々白々の事で、論語のうちばかりにも、孔夫子が信に就て説かれた所が前後十九個所ほどあるやうに思ふ。
 法学博士穂積陳重氏は八十島親徳の子に「信之助」と命名した時に命名の辞に代へて、道徳進化論の上より「信」の重んずべきを説かれたことがある。同氏の意見に拠れば「信」は素と母が其子を哺育する関係より母子の間に生じた「したしみ」即ち「親」に其端を発したもので、母子間の親は拡められて親子間の親となり、更に拡大せられて同族間の親となり、漸次、社会が進歩発達して其範囲を拡張するに至るや、「親」も亦其形式を変じて「信」となつたのであるが、社会が進化して其の範囲が拡めらるれば拡めらるるほど、信は愈〻益〻社会の結成に必要欠くべからざるものとなる故、信は道徳の中でも最も進歩した形式で、今日の如く進化発達せる社会には一日も欠くべからざるものだとの事である。穂積氏の此の意見に対しては、私も全然同意である。
 然し既に「論語処世談」の初頭に於ても私が申し述べて置いた通りで信には又必ず義を伴はねばならぬもので、不義を果さんが為に守る信は単に社会の利益とならざるのみならず、社会を荼毒することになるものである。此辺は青年子弟諸君に於て、十分注意せられて然るべきである。
見義不為。無勇也。【為政第二】
(義を見て為さざるは勇無き也。)
 これは「為政」篇最後の句であるが、武士道などと申すものも、畢竟するに勇を振つて義を行ふ所にあるらしく存ぜられる。苟も義の在る所、水火をも辞せずして行くといふのが、是れ即ち武士道の本意である。
 文天祥と申さるる方は甚だ女々しい行ひのあつた人で、好ましからぬ人物である。私が先年、九州の安川敬一郎氏が設立せられた明治専門学校を参観した時に、同校に文天祥の書いた額を掲げてあつたのが偶然眼に触れたものだから、私は安川氏に向ひ「文天祥とは……エライ人の額を御掲げになつたものだ」と、稍々不同意の心情を漏らすと安川氏よりも私に対し「文天祥の額に就て非難せらるる方は、男爵閣下ばかりで無い、過般大隈伯の来られた時にも、切りに『文天祥は不可ん。文天祥は不可ん』と申されてました」との話があつた程で、文天祥の行為には好ましからぬ事も多いが、この人が死んで後に其遺骸を調べて見ると、下帯に次のやうな銘が書かれてあつたのを発見したとのことである。
孔曰成仁。孟曰取義。惟其義尽。所以仁至。読聖賢書。所学何事。而今而後。庶幾無愧。
(孔曰く、仁を成すと。孟曰く、義を取ると。惟れ其の義を尽すは仁至る所以なり。聖賢の書を読んで、学ぶ所、何事ぞ。而して今而して後、庶幾くば愧無らんか。)
 昔の支那人は、平素服膺すべき箴言を能く袵(ジン)に書きつけなぞして居つたものだが、文天祥は更に其の上は手で、日常の座右の銘とも申すべき此の句を下帯に書いて置いて、座臥共に須臾も我が身よみ[より]離さぬやうにして居つたものと思はれる。
 文天祥が死んでから後に、下帯へ書いてあるのを発見された此の銘は「文天祥衣帯銘」とも亦「衣帯中賛」とも称ばれて居るが、仮令文天祥の人物や行動には好ましからぬ所があつたにしても「衣帯銘」は決して棄つべきもので無い。其意たるや孔子は仁を説き孟子は義を説いたが、人若し義を尽せば、自らにして仁に達するを得べく、仁義は決して二つ個々別々のものでは無い、二にして一なるものである、聖賢の書を読んで学ぶ所も畢竟この上に出づる能はざるもの故、義を尽して世に立ちさへすれば、仁をも完うし、百世の後までも世間の人々より笑はるるやうな愧を掻かずに済むといふにある。
 如何にも其の通りで、孔夫子は論語「衛霊公」篇に於て「志士仁人無求生以害仁。有殺身以成仁(志士仁人は、生を求めて以て仁を害する事無し。身を殺して仁を成すこと有り)」と仰せられた。仁の初歩たる孟子が「公孫丑章句上」に所謂惻隠の心なども其根柢は矢張之を義に発するものである。故に孔夫子は、同じく論語「衛霊公」篇に於て「君子義以為質。礼以行之。孫以出之。信以成之。(君子は義を以て質と為し、礼を以て之を行ひ、孫(遜と同意義)を以て之を出し、信を以て之を成す。」と説かれて居る。義は仁の本体で、義が動いて人の行跡になつたものが是れ即ち仁である。義に勇みさへすれば人は必ず仁を行ひ得るもので、文天祥「衣帯銘」は此の消息を伝へたものである。されば、孟子の如きも「告子章句上」に於て「魚我所欲也。熊掌亦所欲也。二者不可得兼。舎魚而取熊掌者也。生亦我所欲也。義亦我所欲也。二者不可得兼。舎生而取義者也。(魚は我が欲する所、熊掌も亦我が欲する所なり。二つの者兼ぬることを得可からずんば、魚を舎てて熊掌を取らん者なり。生も亦我が欲する所、義も亦我が欲する所なり。二つの者兼ぬることを得可からずんば、生を舎てて義を取らんもの也)と曰はれて居る。
 人誰か生を欲せざるものあらんや、誰でも生を欲しはするが、義の為に生を捨てて意とせざること猶ほ魚を舎てて熊の掌を取るが如くにするのが是れ人の人たる道を尽くす所以である。然し、これは言ふべくして容易に行ひ難いもので、殊に才智謀略に富んだ人に於て難しとする所である。
 されば維新三傑のうちにあつても、大久保公とか木戸公とかの如き計略の多い方々は、如何しても義に勇むといふ処が少かつたやうに思はれる。之に反し、計略智謀には乏しいが何方かと云へば蛮勇のあるやうな方には、義に勇む人々が多いもので[あ]る。高杉晋作さんは米山甚句に能く謡はれる「真の闇夜に桜を削り赤き心を墨で書く」の唄を作つた方で、私は別に親しく往来したわけでも無いが、故井上侯などより承る所によつて観れば、義を見て為さざるは勇無き也、との意気が常にあつた人の如くに思はれる。高杉さんは、余程変つた面白い所のあつた人らしく、安政六年吉田松陰の在獄中に種々世話をしてやつたり、文久二年品川御殿山の洋館を焼いたり、其他屡〻生死の巷に出入したのも、義を見て為すの勇があつたからである。それから又、坂本竜馬といふ人なんかも、義を見て為さざるは勇なき也との意気があつた方のやうに思はれる。
 御大老井伊掃部頭を桜田で刺した水戸浪士の仲間に、有村治左衛門といふ人があつた。この人は元来薩摩の藩士で、安政の六年薩摩から出て来て国事に奔走して居つたのだが、其間に水戸の志士と交際するやうになつたものである。然し、井伊大老を刺さうといふ評議のあつた時には、有村は水戸藩のものでも無いから、若し浪士の仲間に加盟せずに済まさうとすれば加盟せずとも夫れで済んだものである。この消息は当時の事情を詳細に調査して見れば直ぐ明かになる次第だが、有村は井伊大老を以て天朝に対して慮外の処置を致す不届至極の不義者と考へたので、水戸浪士の仲間入をしないやうでは、是れ義を見て為すの勇なき卑怯者になると信じ、幾干も抜け道があつたに拘らず強ひて自ら求めて桜田事変の徒党に加盟したものである。
 如何なるものを「義」と観るかといふ事に関しては、それぞれ其人其時代によつて観る所を異にするだらうが、井伊大老にして果して違勅等の所為があつたとすれば、有村治左衛門が之を刺すを義なりしとて、当然避け得らるべき所を避けずに、万延元年の桜田事変に於ける水戸浪士の仲間入りをしたのは、生を軽んじ義を重しとしたものと云はねばならぬ。
 水戸藩も藤田東湖先生などと申す俊傑を出した頃には、一時、之によつて天下に名を成したものであるが、東湖先生が死んでしまはれた後は、烈公と仰せらるる方が元来世間で評判せられるほどに偉大な人傑でなく、余程偏狭な処があつて、実際は政治の手腕に乏しかつたものと見え、藩内に党争が絶えず、互に他を排斥して之を殺してしまはうといふ如き傾きを生じ、遂に烈公派と中納言派との二党の間に激烈なる確執を生ずるまでに至つたものである
 烈公派は尊王攘夷を以て旗幟とし自ら正党と称し、中納言派は佐幕開港を以て旗幟とし姦党と称せられたのであるが、佐幕開港派の所謂姦党の勢力が次第に盛んになつて来て、尊王攘夷派の所謂正党の方が危地に陥りかけて来たものだから、この派の頭目武田耕雲斎は、同志の者三百人ばかりを率ゐて筑波山に立て籠つて兵を挙げ、幕府に抗しようとしたが、軍利あらず敗戦になつたものだから、今度は越前の敦賀の方を廻つて京都に上り、大に事を計らうとしたが、幕府では耕雲斎の仲間に京都へ入り込まれては大変だといふので、一橋慶喜公に出兵して耕雲斎を討伐するやうにとの命を下されたのであつた。
 武田耕雲斎は、同志の者を引きつれて敦賀まで来た時に、一橋慶喜公が兵を率ゐて討伐に向はれると聞いたものだから、慶喜公を敵にして戦ふわけにもゆくまいといふので、遂に一同は丹羽玄蕃丞まで降服を申入れて、帰順の意を表することになつたのである。依て幕府方に於ては夫々処分をつけて、慶応元年二月、武田耕雲斎以下重だつたる者には切腹を命じ、其他身分の軽いものは之を斬首の刑に処したのであるが、その時殺されたものが何でも八十人ばかりあつたやうに記憶する。
 そのうちで、二月四日斬罪の刑に処せられた者のうちに、僅に二十四歳の藤田小四郎といふ青年があつた。この人とは私も両三回面接したこともあるが、頗る立派な人物で、刑に臨み従容として文天祥正気歌を朗吟し、辞世として、
兼ねてより思ひ染めにし言の葉を
   今日大君に告げて嬉しき
の一首を遺し、泰然、死に就いたのである。小四郎は名を「信」と謂ひ、東湖先生の第四子に当る人である。然し、今回私が徳川慶喜公の御一代記を編纂することになつて、種々詳しく取調べた所によると、小四郎も桜田事変に於ける有村治左衛門と等しく、強ひて武田耕雲斎の徒党に与して斬首に処せらるるまでの目に遭はずに済まさうとすれば幾干でも済まされる位置にあつた人で、又、耕雲斎の仲間に無理に引き込まれたのでも何でも無い。然るに藤田小四郎は耕雲斎が頭目であつた正党に入つて兵を挙ぐるのを是れ即ち義であると信じたものだから、生を捨て強ひて耕雲斎の仲間に党し、遂に斬首に処せられたのである。この点から観れば小四郎はまさしく義を見て為さざるは勇無きなり、との意気があつた人と思はれる。明治廿四年武田耕雲斎が正四位を贈られた時に、藤田小四郎も亦従四位を天朝より追贈されて居るが、ここらの為だらうと私は存ずる。
 私の此の邸宅のある飛鳥山の山続きは、今でも道灌山と云はれるほどで、その昔太田道灌の住つてた処だらうとのことであるが、道灌は始めて江戸城を築いた人だと申すことになつて居る。狩りに出た帰り途、雨に逢つて雨具を借りに或る農家に入ると、蓑の代りに少女が山吹の枝を出したといふので太田道灌の名は能く世間に知られて居るが幼より武蔵の管領上杉持朝に知られ、十一歳召されて出仕し、源六郎持資と称したものである。然るに、上杉の臣下中に道灌と快からざる長尾意玄と申すものがあつて、酷く道灌を邪魔物にし、種々と策略を運らし道灌を亡きものにせんと謀んだが、上杉氏も遂に其策略に乗せられ、道灌を糟屋(今の豊多摩郡千歳村)の第に招き、浴室に入れて置いて刺客に道灌を殺させることになつたのである。これは文明十八年七月、道灌齢五十五の時であつたが、刺客に刺される時も道灌は神色自若として毫も狼狽せる模様なく、
かかる時さこそ命の惜しからめ
   かねて無き身と思ひ知らずば
の一首を辞世に詠み、従容として死に就いたとの事である。この一首の意味は、平素より生命を無いものと思つてゐるから、只今不義者の計略にかかり生命を取られても露些か生命を惜しいなぞとは思はぬが若しも平素より生命を無いものだと思つて居らねば、こんな時に定めし生命が惜しいことだらうといふにある。太田道灌は文雅の素養も並々ならず、雅懐に富ませられた方であるが、それでも義と見れば進んで之に殉ずる覚悟が平素よりあつた人と思はれる。今、申述べた如く一首を辞世に詠むことのできたのも、畢竟するに平素より義を見て為さざるは勇無き也、との意気があつたからである。今の青年子弟諸君に於いても、平素より常に此の太田道灌の如き意気と覚悟とを持つやうにして戴きたいものである。
 孔夫子は義を見て為さざるは勇無き也と、教へられて居るが、不義を見て為すのも亦、勇の無いものである。故に、青年子弟諸君は、義と見れば進んで之に殉ずるの勇あると共に、不義と見たらば、如何なる人より圧迫せられても断じて之を為さずといふの勇気が無ければならぬものである。
 大塩平八郎が天保八年大阪に兵を挙げて乱を起した時のことであるが、彦根の藩士で平八郎の高弟に当るものに宇津木矩之丞といふ人があつた。桜田で水戸浪士に刺された井伊掃部頭家の家老を勤めた俗に大宇津木と申した人の子息で、岡本半助や岡田六之丞なぞとも多少の縁辺に当つたものである。大塩に就き深く陽明学を修め、長崎にも参つたことなぞもあつたが、彦根に帰つて陽明学を教授して居るうち大塩に挙兵の陰謀があるとも知らず、一日大阪に出でて大塩に面会すると、折柄恰度大塩に於ては挙兵準備の最中であつたものだから、大塩は宇津木矩之丞に其次第を漏らし、一味徒党の連判に加はるやうにと勧めたのである。
 この時に宇津木矩之丞は、大塩平八郎が既に大事を自分に漏らしたからには、若し一味徒党に加はらぬと撥ねつけてしまへば忽ち其場で大塩に殺されるに相違ないとは覚つたが、大塩の挙兵は義に悖るもので、朝憲を紊乱する乱民の所為であると信じたものだから、諄々として其不可なるを説いて挙兵を諫止し、自分は素より大塩の一味徒党に加はるを肯んじなかつたのである。然し大塩に於ては少しも意を翻す模様が見え無いので、其夜、大塩の邸に一泊することにはしたが、必ず其夜の中に大塩に殺されるものと覚悟し、同伴して参つた十八歳ばかりの少年に、委細を詳しく認めた一封を授け、之を窃に懐にして大塩の邸宅より抜け出て、急ぎ彦根に帰るべき旨を命じたのであるが、少年のこととて、旨く邸を抜け出るわけに行かず、彼是して居る間に平八郎は果して一刀を提げて矩之丞を殺しにやつて来たのである。
 少年は之を見るや驚いてウロウロして居つたので、矩之丞は狼狽為す所を知らざる少年を叱して邸より抜け出でしむると共に、大塩に対しては「斯くあるべしと覚悟の上に諫止せし事故、決して逃げも隠れもせぬから」と立派に言ひ放ち、猶ほ大塩の不心得を諫めて従容その刃に罹つて殺されたとのことである。
 この宇津木矩之丞の如きは、不義を見て為さざる勇のあつた人といふべきである。この点に於て、青年諸君は大に矩之丞の意気を学び、不義と思ふ事には、何時如何なる人より加担を迫られても決して其仲間に加はらず、為に生を捨つるも厭はざるまでの覚悟を平素より養つて置くやうにして戴きたいものである。この宇津木矩之丞なる彦根藩士一家の方で宇津木騮太郎といふ人は目下大阪の北野中学校に英語の教師をして居られるとか聞き及んで居る。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.2-7
底本の記事タイトル:二〇二 竜門雑誌 第三三二号 大正五年一月 : 実験論語処世談(八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)
初出誌:『実業之世界』第12巻第18号(実業之世界社, 1915.09.15)