デジタル版「実験論語処世談」(8) / 渋沢栄一

8. 東湖の遺子藤田小四郎

とうこのいしふじたこしろう

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 武田耕雲斎は、同志の者を引きつれて敦賀まで来た時に、一橋慶喜公が兵を率ゐて討伐に向はれると聞いたものだから、慶喜公を敵にして戦ふわけにもゆくまいといふので、遂に一同は丹羽玄蕃丞まで降服を申入れて、帰順の意を表することになつたのである。依て幕府方に於ては夫々処分をつけて、慶応元年二月、武田耕雲斎以下重だつたる者には切腹を命じ、其他身分の軽いものは之を斬首の刑に処したのであるが、その時殺されたものが何でも八十人ばかりあつたやうに記憶する。
 そのうちで、二月四日斬罪の刑に処せられた者のうちに、僅に二十四歳の藤田小四郎といふ青年があつた。この人とは私も両三回面接したこともあるが、頗る立派な人物で、刑に臨み従容として文天祥正気歌を朗吟し、辞世として、
兼ねてより思ひ染めにし言の葉を
   今日大君に告げて嬉しき
の一首を遺し、泰然、死に就いたのである。小四郎は名を「信」と謂ひ、東湖先生の第四子に当る人である。然し、今回私が徳川慶喜公の御一代記を編纂することになつて、種々詳しく取調べた所によると、小四郎も桜田事変に於ける有村治左衛門と等しく、強ひて武田耕雲斎の徒党に与して斬首に処せらるるまでの目に遭はずに済まさうとすれば幾干でも済まされる位置にあつた人で、又、耕雲斎の仲間に無理に引き込まれたのでも何でも無い。然るに藤田小四郎は耕雲斎が頭目であつた正党に入つて兵を挙ぐるのを是れ即ち義であると信じたものだから、生を捨て強ひて耕雲斎の仲間に党し、遂に斬首に処せられたのである。この点から観れば小四郎はまさしく義を見て為さざるは勇無きなり、との意気があつた人と思はれる。明治廿四年武田耕雲斎が正四位を贈られた時に、藤田小四郎も亦従四位を天朝より追贈されて居るが、ここらの為だらうと私は存ずる。

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キーワード
藤田東湖, , 藤田小四郎
デジタル版「実験論語処世談」(8) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.2-7
底本の記事タイトル:二〇二 竜門雑誌 第三三二号 大正五年一月 : 実験論語処世談(八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)
初出誌:『実業之世界』第12巻第18号(実業之世界社, 1915.09.15)