デジタル版「実験論語処世談」(8) / 渋沢栄一

7. 水戸烈公は偏狭の人

みとれっこうはへんきょうのひと

(8)-7

 水戸藩も藤田東湖先生などと申す俊傑を出した頃には、一時、之によつて天下に名を成したものであるが、東湖先生が死んでしまはれた後は、烈公と仰せらるる方が元来世間で評判せられるほどに偉大な人傑でなく、余程偏狭な処があつて、実際は政治の手腕に乏しかつたものと見え、藩内に党争が絶えず、互に他を排斥して之を殺してしまはうといふ如き傾きを生じ、遂に烈公派と中納言派との二党の間に激烈なる確執を生ずるまでに至つたものである
 烈公派は尊王攘夷を以て旗幟とし自ら正党と称し、中納言派は佐幕開港を以て旗幟とし姦党と称せられたのであるが、佐幕開港派の所謂姦党の勢力が次第に盛んになつて来て、尊王攘夷派の所謂正党の方が危地に陥りかけて来たものだから、この派の頭目武田耕雲斎は、同志の者三百人ばかりを率ゐて筑波山に立て籠つて兵を挙げ、幕府に抗しようとしたが、軍利あらず敗戦になつたものだから、今度は越前の敦賀の方を廻つて京都に上り、大に事を計らうとしたが、幕府では耕雲斎の仲間に京都へ入り込まれては大変だといふので、一橋慶喜公に出兵して耕雲斎を討伐するやうにとの命を下されたのであつた。

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キーワード
水戸, 徳川斉昭, 偏狭,
デジタル版「実験論語処世談」(8) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.2-7
底本の記事タイトル:二〇二 竜門雑誌 第三三二号 大正五年一月 : 実験論語処世談(八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)
初出誌:『実業之世界』第12巻第18号(実業之世界社, 1915.09.15)