デジタル版「実験論語処世談」(8) / 渋沢栄一

9. 太田道灌の辞世一首

おおたどうかんのじせいいっしゅ

(8)-9

 私の此の邸宅のある飛鳥山の山続きは、今でも道灌山と云はれるほどで、その昔太田道灌の住つてた処だらうとのことであるが、道灌は始めて江戸城を築いた人だと申すことになつて居る。狩りに出た帰り途、雨に逢つて雨具を借りに或る農家に入ると、蓑の代りに少女が山吹の枝を出したといふので太田道灌の名は能く世間に知られて居るが幼より武蔵の管領上杉持朝に知られ、十一歳召されて出仕し、源六郎持資と称したものである。然るに、上杉の臣下中に道灌と快からざる長尾意玄と申すものがあつて、酷く道灌を邪魔物にし、種々と策略を運らし道灌を亡きものにせんと謀んだが、上杉氏も遂に其策略に乗せられ、道灌を糟屋(今の豊多摩郡千歳村)の第に招き、浴室に入れて置いて刺客に道灌を殺させることになつたのである。これは文明十八年七月、道灌齢五十五の時であつたが、刺客に刺される時も道灌は神色自若として毫も狼狽せる模様なく、
かかる時さこそ命の惜しからめ
   かねて無き身と思ひ知らずば
の一首を辞世に詠み、従容として死に就いたとの事である。この一首の意味は、平素より生命を無いものと思つてゐるから、只今不義者の計略にかかり生命を取られても露些か生命を惜しいなぞとは思はぬが若しも平素より生命を無いものだと思つて居らねば、こんな時に定めし生命が惜しいことだらうといふにある。太田道灌は文雅の素養も並々ならず、雅懐に富ませられた方であるが、それでも義と見れば進んで之に殉ずる覚悟が平素よりあつた人と思はれる。今、申述べた如く一首を辞世に詠むことのできたのも、畢竟するに平素より義を見て為さざるは勇無き也、との意気があつたからである。今の青年子弟諸君に於いても、平素より常に此の太田道灌の如き意気と覚悟とを持つやうにして戴きたいものである。

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キーワード
太田道灌, 辞世, 一首
デジタル版「実験論語処世談」(8) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.2-7
底本の記事タイトル:二〇二 竜門雑誌 第三三二号 大正五年一月 : 実験論語処世談(八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)
初出誌:『実業之世界』第12巻第18号(実業之世界社, 1915.09.15)