1. 民に信莫くんば其国亡ぶ
たみにしんなくんばそのくにほろぶ
(8)-1
子曰。人而無信。不知其可也。大車無輗。小車無軏。其何以行之哉。【為政第二】
(子曰く、人にして信無くんば其の可なるを知らず、大車輗なく、小車軏無くんば、其れ何を以てか之を行らんや。)
往昔支那で、大きな車を動かすには輗と称する横木を梶棒の端へつけて之に牛を繫ぎ、又小さい車を動かすには軏と称する鉤のやうなものを梶棒の端に結びつけて之に馬を繫ぎ、それで以て旨く牛馬を駕御して車を曳かせることにしたものだが、輗と軏とが莫ければ、如何に堂々たる車輛があつても、如何に逸れた牛馬があつても、車は一寸たりとて動くもので無い。丁度そのやうに、人に「信」が無ければ如何に才智があつても、如何に技倆があつても、少時たりとて安全な世渡りを為て行けるもので無いといふのが、茲に掲げた教訓の趣旨で、信は人の行ひに取つて扇の要の如きものである。信無くしては、如何なる事業にある人も、如何なる職務にある人も世に立つて行けるもので無いのである。(子曰く、人にして信無くんば其の可なるを知らず、大車輗なく、小車軏無くんば、其れ何を以てか之を行らんや。)
是に於てか孔夫子は、同じく論語の「顔淵」篇に於て、子貢が夫子に対し、政治とは如何なるものか、との質問を発した時に「足食。足兵。民信之。」(食を足らし、兵を足らす、民之を信ず)。即ち民力兵力を充実し、民をして信を守らしむるのが、是れ政治の奥義であると答へられ、然らば此の三つの中で孰れが一番大事のものかと子貢より重ねて御問ひ申上げると、国には兵が無いからとて必ずしも滅ぶるもので無い、又国に食物が無いからとて必ずしも滅ぶるものでは無い。「自古皆有死」(古へより皆死あり)だが、「民無信不立」(民信なくんば立たず)と答へられ、国民若し信を守らずんば、其国家は一日たりとて立ち行くもので無い、食が無い為に死するのは生きとし生けるものの一度遭はねばならぬ運命に遭ふ丈けのことであるが、国民に信なき為国家の陥らねばならぬ亡国の運命は、是れ自ら強ひて招く禍であると仰せられたのである。
孔夫子が、人の守るべき道の中で最も重きを信に置かれたことは、是までに既に申上げた所によつても、亦其他の章句に照らしても明々白々の事で、論語のうちばかりにも、孔夫子が信に就て説かれた所が前後十九個所ほどあるやうに思ふ。
- デジタル版「実験論語処世談」(8) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.2-7
底本の記事タイトル:二〇二 竜門雑誌 第三三二号 大正五年一月 : 実験論語処世談(八) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)
初出誌:『実業之世界』第12巻第18号(実業之世界社, 1915.09.15)