デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.482-488

子貢問。師与商也孰賢。子曰。師也過。商也不及。曰。然則師愈与子曰。過猶不及。【先進第十一】
(子貢問ふ。師と商と孰れか賢なる。子曰く。師や過ぐ。商や及ばず。曰く。然らば則ち師は愈れるか。子曰く。過ぎたるは猶ほ及ばざるが如し。)
 師は子張の名、商は子夏の名、共に孔門の逸足であるが其性行が等しくないから、或日子貢が孔子に対して此の二人の特長を尋ねた。処が孔子は子張は過ぎてゐる、子夏は及ばぬ処があると答へられた。そこで子貢は更に折返し、それでは子張は子夏より勝れて居りますかと聞いた。孔子は首を振つて、イヤ〳〵さうぢやない、人間は中庸が最も大切である。過ぎたるも中庸でなく、及ばざるも中庸でない。されば過ぎたるも中庸を得ざる事に於て猶ほ及ばざるに等しいと答へられた。蓋し子張は才高く意広く、好んで難い事をなしたので、孔子は之れを過ぎたりと為し、子夏は篤く信じ謹み守りて、どつちかと言へば引込み思案に近い性質であつたから、及ばずと為したのである。
 今日でもエライ人が沢山居るが、さて真に中庸を失はぬ人が幾人あるだらうか。此人は手腕があるなと思ふと所謂中庸を失つて過ぎて居り、此人物は確かりしてゐるなと思ふと及ばぬ処があつて、中庸を得た人は極めて少い。凡て中庸を保つといふ事は其身を完うし、又人として中道を歩むことは最も必要なことであるから、私は諸君に自分自身の行ひが中庸を得て居るかどうかを省みて欲しいと思ふ。自分自身を省みる時、恐らく其所に過、不及を見出すであらう。
季氏富於周公。而求也為之聚斂而附益之。子曰。非吾徒也。小子鳴鼓而攻之可也。【先進第十一】
(季氏周公より富めり。而るに求や之が為に聚斂して之を附益す。子曰く。吾徒に非ざるなり。小子鼓を鳴らして之を攻めて可なり。)
 季氏は魯の大夫であつたが、賦税を重くして富を積み、昔の周公よりも遥かに財宝を蓄へた。周公は大国の王室の近親で宰相となり、清廉潔白であつた許りでなく、大功があつた人であるが、其の周公よりも富を蓄積したのは、皆民を苦しましめて自分の懐中を肥した結果である。然るに冉求が季氏に仕へて其の家宰となつたが、季氏の非を改めさせようとはせず、其部下として働いたので、孔子は冉求の主に事ふる道を誤つて居る事を述べ、且つ、求はもはや吾が弟子ではない。門人諸子は宜しく其非を攻むべしと言はれた。
 之れは孔子が必ずしも冉求の行為を憎んで言はれたものではないと思ふ。即ち孔子は師として冉求の非を改めさせようとし、師としての立場を明かにして先づ門弟を誡め、而して門人をして忠告せしめて其の誤りを正さしめようとした、深く人を愛するの情より斯く言はれたものであると解釈するのが至当であらう。
柴也愚。参也魯。師也辟。由也喭。【先進第十一】
(柴や愚。参や魯。師や辟。由や喭。)
子曰。回也其庶乎。屡空。賜不受命而貨殖焉。億則屡中。【先進第十一】
(子曰く。回や其れ庶からん乎。屡〻空し。賜は命を受けずして貨殖す。億れば即ち屡〻中る。)
 此の章句は一緒に纏めて、後の方から解釈した方が寧ろ順序が宜しいから、さういふ風にお話をする。
 孔子の門弟の内で、顔回は最も道に近い人である。一向自分で富を致すといふやうな観念は持つてゐなかつた。処が賜、即ち子貢は天命に安んじて道を楽しむことが出来ず、心を貨殖に用ひた。之れ顔回に及ばぬ処である。併しながら其の才識明敏であつて、事を臆度すれば屡〻能く適中する。只貨殖に長ずるが故に、人品に自ら多少の差異がある。柴は子羔の事であるが、変通の才乏しく、重厚に過ぐる嫌ひがあつた。一例を挙ぐれば、其家語に「其足影(孔子の)を履まず、啓蟄を殺さず、方に長ずるは折らず。親の喪を執て泣血三年、未だ曾て歯を明はさず云々」とあるを見ても、其の人と為りを知るに足るであらう。
 参は曾子の名である。曾子は年が若かつたけれども仲々立派な人物であつた。「鳥の将に死せんとするや其声悲し、人の死なんとするや其言や良し」とか、「荷[任]重うして道遠し」など曾子にある事は人の能く知る処である。然し其の人と為りは敏捷でなかつた。それで孔子は之れを評して鈍であると言はれた。師は即ち子張、常に其の威儀を整へ外面を飾るに過ぎて内を修むる工夫を欠き、誠実といふ点に於て足らぬ処があつたので、孔子は此点を指摘された。由は子路の名、剛勇の人であつたから、外貌が粗俗であつて文采に乏しかつた。換言すれば、挙動はテキパキしてよいけれども、言ふ事が確実でなく物事が凡て上品味に欠けてゐた。
 要するに之れは孔子が門人中の数人に就て、其の性格を有りのままに形容されたもので、一面に於ては門弟に対する訓戒とも見るべきであるが、取り立てて現代に当て嵌めて説明する程の事はない。
子曰。論篤是与。君子者乎。色荘者乎。【先進第十一】
(子曰く。論篤に是れ与せば。君子者か。色荘者乎。)
 色荘者といふのは、体裁のよい所謂好言令色の人を言ふのである。即ち此の章は言葉のみでは其の人物が分らない、真に其の人間を知るには其の行ひを見なければ分らぬといふ事を言はれたのである。「能言真君子、善所即大丈夫也」といふ句があるが、兎角議論だけを聞いて其人を信ずると、往々にして其人物の鑑定を誤る事がある。
 近時、此の類の事が頗る多い。私の処には始終各方面の種々な方々が訪問されるが、其の中には立派な議論をし、又、結構な企てをして相談に来られる人も尠くないけれども、後日になつて見ると其の言ふ事が少しも行はれてゐない例が尠くない。一例を挙げると、労働会館を設けるといつて有志の賛成を請ふ人があると仮定する。其の趣旨は頗る結構の事であるし、是非其の目的を達成せしめたいと蔭ながら思つて居るに拘らず其の事を一向実行しないといふ風な人が多い。甚だしきに至つては、之れを口実にして、其実は自分の糊口の資に供してゐる人もある。之れは悉くの人がさうであるといふ訳ではないけれども、世間には斯かる例が決して尠くない。議論ばかりでウカと人を信ずる事の出来ない所以である。現に私自身もかう云ふ実例に屡〻遭遇した事がある。斯かる事は一面から言へば、人を見るの明がないといふ事にもなるけれども、世人は能く此点に注意すべきであると思ふのである。
子路問。聞斯行諸。子曰。有父兄在。如之何。其聞斯行之。冉有問聞斯行諸。子曰。聞斯行之。公西華曰。由也問。聞斯行諸。子曰。有父兄在。求也問。聞斯行諸。子曰。聞斯行之。赤也惑。敢問。子曰。求也退。故進之。由也兼人。故退之。【先進第十一】
(子路問ふ。聞くままに斯に諸《これ》を行はんやと。子曰く。父兄在すこと有り。之を如何ぞ。其れ聞くがままに斯に之を行はん。冉有問ふ聞くままに斯に諸を行はんやと。子曰く。聞くままに斯に之を行へと。公西華曰く。由や問ふ。聞くままに斯に諸を行はんかと。子曰く。父兄在すこと有りと。求や問ふ。聞くままに斯に諸を行はんやと。子曰く。聞くままに斯に之を行へと。赤や惑ふ。敢て問ふ。子曰く。求や退く。故に之を進む。由や人を兼ぬ。故に之を退くと。)
 此の章は孔子が其の門弟を訓ふるに、其の人の性格によつて導かれた実例であつて、子路が、「何事も義なることを聞くがままに行うても宜しう御座いますか」と質問したに対し、孔子は之に答へて、「家に父兄の在る以上は、宜しく之に聞き、命を受けて然る後之れを行ふべきである。何ぞ自分の一量見を以て聞くがままに行ふ事が出来ようぞ」と言はれた。然るに冉有の同じ問に対して孔子は、聞くがままに行うて差支ないと答へられた。そこで公西華は疑惑を抱き、同じ問に対して子路には父兄の在る以上は之れに聞きて行ひ、意のままに行うてはならぬと言はれ、冉有には聞くがままに行へと仰せになつたが、一体どつちに従ふ可きのものでせうかと質問したのである。孔子は公西華の疑惑もさる事ながら、冉有は退き守るの風がある、故に進んで勇ましめようとしたのであるが、子路は其の勇が常人に優つて居るから、退守の風を養はしめるために彼の様に答へたのであると説明された。即ち其の過ぐるを退け、其の及ばざるを進め、之れをして中道を得せしむるのが孔子の訓へであつて、性格を能く見分けて適当の薫陶をする処が、之れ人の師として孔子の偉い処である。
 一体、真の教育といふ見地よりすれば、人には各〻個性があつて悉く一様でないのであるから、其の才能の寸尺に従うて之れに適応する教育をするのが一番よい。即ち性のよい部分を採つて之れを教へ導き其の天分を完うせしむるやうにするのが理想的なのである。例へば同じ学問にしても、数学には群を抜いた頭脳を有して居るけれども、歴史や地理などが一向に分らぬとか、哲学や宗教には非常に熱心で成績がよいけれども、科学は駄目であるとか、数学が下手であるとかいふ例は幾等もある。又、其の人の性と才能によつて学者として立つに適した人もあり、実業家向の人もあり、技術家としての天分を備へた人もあれば教育家としての素質を持つてゐる人もある。理想的見地よりすれば、斯くの如く各〻性格、才能が異つて居るのであるから、之れを教育するに当つては、各〻特徴を知悉して特別教育を施し、性のよい点を守り進めるやうにするのが最も適当な教育なのであるけれども今日の如き時代に於て、到底之れを満足せしむるやうな教育を望むのは不可能である。されば或る程度までは劃一的教育も止むを得ない事と思ふ。此の点に於ては敢て孔子の能く子弟の性格を見分けて適当の薫陶をされた事と比較しようとするものではないが、現代の教育に於て最も欠点とする処は精神的方面であると思ふ。
 現今の日本の教育施設に就ては、まだ足らぬ所のあるのは言ふ迄もないが、限りある経費の関係上、先づ余儀ないものとして之れには言及せぬが、総体に精神教育が閑却されてゐるのは最も遺憾とする処である。どうしてももう少し精神教育に力を注がなければ、今後の世界的国民としての教養が心許ないと思ふ。殊に高等教育に進む前、即ち小学校時代に之れが教養をするの必要があると信ずる。欧米には普通教育の科目に神学科があつて、宗教の事や其他正義人道に関する精神的方面の教育が重んぜられてゐるのであるが、我国に於ては人道を履み、正義を行うて行くといふ所謂精神教育は殆ど皆無と言つてもよい位である。そして徒らに欧米の物質文明のみ趁うて居りながら、近頃思想の悪化とか、左傾とかいふ言葉を耳にするのは、聊か本末を顛倒して居りはしないか。私をして忌憚なく言はしむれば、日本の現今の教育は余りに物質文明にのみ趨り過ぎて、少しく食傷の気味であると云ひたい。然して湿地を嫌ひて低きに赴きつつあるものと云ひたい。湿地を嫌ふならば、須く高い処に行く可きである。敢て世の為政家教育家に此一言を呈する。
子畏於匡。顔淵後。子曰。吾以女為死矣。曰。子在。回何敢死。【先進第十一】
(子匡に畏る。顔淵後れたり。子曰く。吾れ女を以て死せりと為す 子曰。子在り。回何ぞ敢て死せん。)
 之れは孔子の匡の難に際し、師弟の情の発露したる処である。孔子が匡を通つた時、突然匡人に囲まれて兵難に遇はれたが、孔子の師弟は二日間も一食をも摂らなかつたと云ふ程であつた。後、衛の兵が来て一行を救ひ難を免れたが、此時行を共にしたる顔淵が孔子を見失うて、遅れて駆け着いたので、孔子は喜び迎へて、余はお前が已に死んだかと思つて心配して居つたが、幸ひに無事であつたかと言はれた。顔回之れに答へて、「先生が難を免れて無事に生きてゐらるる以上は何しに軽々しく戦ひに赴いて犬死するやうな事を致しませう」と言つた。之れが此の章の大意である。
 之れについて思ひ出したが、余談に亘るけれども私は曾て孔子の匡の難を脚本に書いたのを読んだ事がある。誰の書いたものであるか、はつきりした記憶はないが、其の場面に現はれる人物が、論語を通じて知られて居る人物の性格が能く表現されて居つた。其中で、子路は狼狽してゐるに反して、顔淵は悠然としてゐる。更に孔子に至つては殆ど平常と何等の異る処がなく、平気で眠つて居られた。個々の性格がよく現はれてゐたので面白く読んだのであつたが、孔子の師弟が皆死を決して居つたものであることは疑ひない。
 さて此の章句には更に別の意味が含まれてゐる。即ち、顔回の「子在、回何敢死」の裏面には「若し不幸にして夫子が危難に遇はるるが如き事があるならば、回は必ず身を捨てて之れを拒ぎ、敵中に死する覚悟である」といふ意味が含まれてゐるのである。昔の師弟は今の師弟と異り、情義が頗る厚い。時には死生を共にするの覚悟があつた。今は勿論時代が異るから、私は決して昔を真似よとは言はぬが、師弟の情義など殆ど薬にしたくも見られないやうな、当今の浮薄さ加減にも呆れる。
季子然問。仲由冉求。可謂大臣与。子曰。吾以子為異之問。曾由与求之問。所謂大臣者。以道事君。不可則止。今由与求也。可謂具臣矣。曰。然則従之者与。子曰。弑父与君。亦不従也。【先進第十一】
(季子然問ふ。仲由、冉求は、大臣と謂ふ可きかと。子曰く。吾れ子を以て異を之れ問ふと為す。曾ち由と求とを之れ問ふ。謂はゆる大臣は、道を以て君に事へ、不可なれば則ち止む。今由と求とは、具臣と謂ふ可きのみと。曰く。然らば則ち之に従ふ者か。子曰く。父と君とを弑するには、亦従はじ。)
 季子然は、桓子の弟で魯の顕職に在りし人であるが、孔子の高弟たる仲由、冉求の二人を召し抱へて臣として居つたので、常に悦び誇つて居つた。或日季子然は孔子に向つて言ふには、「仲由、冉求の二人は大臣の資格を具へた人と謂つて差支ありませぬか」と聞いた。孔子は之れに答へて、「貴方は何を聞かれるかと思つたら、変つた事を尋ねられるものですね。大臣たるの人物を問はれるからには、才徳兼備した凡人の及ばぬ人物を挙げて問はれる事と思つたのに、由と求とを之に擬せんとするはどうした事です。所謂大臣の器を具へた者は、正しき道を以て君に事へ、君をして礼義により仁政を行はしむる様にし若し君其の言を聴かず、道を行ふ事の出来ない時には、節を屈して主君の意に従ふやうな事をせず、官を罷めて去るのみである。由と求の二人に至つては到底大臣の資格がない。只一官一職の才能を有するの臣といふ可きである」と言はれた。季子然重ねて、問うて云ふには、「二人とも大臣たるの人物でないならば、即ち如何なる事でも主君の欲する処に従つて背く事なく、身の栄達を図るものであるか」と反問した。孔子は、「イヤ彼の二人は大臣たるの器ではないけれども、君臣の大義に於ては平生よく之れを聞いて居る。故に小さい事は主君の意に従ふであらうが、子として父を弑し、臣として君を害するが如き大逆に至つては、彼の二人と雖も其の主の意に従ふやうな事は断じてない」と言下に答へられた。
 之れは要するに季子然の問に対して、由と求とは具臣であるが、君父の大節に至つては奪ふべからざるものあるを言ひ、暗に季氏の不臣の心を挫いたのである。当時魯の顕臣であつた季氏は、次第に魯国の政治を擅にして、稍もすれば主君の権威を奪ひ、魯の国を自分のものにしようといふ気振りがあつたのである。それでゐて表面は仁政を布くと見せかけて居つたのであるが、之れを見抜いてゐられる孔子は、先づ仲由、冉求の二人を軽んじて季氏の矜誇の心を抑へ、然して最後に仲由、冉求の二人は大臣の器でないけれども、道を学んで能く大義を知る者であるから、君父を弑するが如き悖逆には決して之れが爪牙となるものでないと二人の節義を称し、暗に季氏の邪謀を阻止せんとせられた。
 孔子が人を見る明に長じて居つた事は、これまでも屡〻述べた如くであるが、折に触れ、時に際し、之れを正しい道に導かうとして居られた事は、此の章句の中にもよく窺ひ知る事が出来る。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.482-488
底本の記事タイトル:三三七 竜門雑誌 第四一〇号 大正一一年七月 : 実験論語処世談(第五十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第410号(竜門社, 1922.07)
初出誌:『実業之世界』第19巻第1,2号(実業之世界社, 1922.01,02)