デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一

1. 人間中庸を保つが第一

にんげんちゅうようをたもつがだいいち

(58)-1

子貢問。師与商也孰賢。子曰。師也過。商也不及。曰。然則師愈与子曰。過猶不及。【先進第十一】
(子貢問ふ。師と商と孰れか賢なる。子曰く。師や過ぐ。商や及ばず。曰く。然らば則ち師は愈れるか。子曰く。過ぎたるは猶ほ及ばざるが如し。)
 師は子張の名、商は子夏の名、共に孔門の逸足であるが其性行が等しくないから、或日子貢が孔子に対して此の二人の特長を尋ねた。処が孔子は子張は過ぎてゐる、子夏は及ばぬ処があると答へられた。そこで子貢は更に折返し、それでは子張は子夏より勝れて居りますかと聞いた。孔子は首を振つて、イヤ〳〵さうぢやない、人間は中庸が最も大切である。過ぎたるも中庸でなく、及ばざるも中庸でない。されば過ぎたるも中庸を得ざる事に於て猶ほ及ばざるに等しいと答へられた。蓋し子張は才高く意広く、好んで難い事をなしたので、孔子は之れを過ぎたりと為し、子夏は篤く信じ謹み守りて、どつちかと言へば引込み思案に近い性質であつたから、及ばずと為したのである。
 今日でもエライ人が沢山居るが、さて真に中庸を失はぬ人が幾人あるだらうか。此人は手腕があるなと思ふと所謂中庸を失つて過ぎて居り、此人物は確かりしてゐるなと思ふと及ばぬ処があつて、中庸を得た人は極めて少い。凡て中庸を保つといふ事は其身を完うし、又人として中道を歩むことは最も必要なことであるから、私は諸君に自分自身の行ひが中庸を得て居るかどうかを省みて欲しいと思ふ。自分自身を省みる時、恐らく其所に過、不及を見出すであらう。

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デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.482-488
底本の記事タイトル:三三七 竜門雑誌 第四一〇号 大正一一年七月 : 実験論語処世談(第五十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第410号(竜門社, 1922.07)
初出誌:『実業之世界』第19巻第1,2号(実業之世界社, 1922.01,02)