6. 精神教育を閑却する勿れ
せいしんきょういくをかんきゃくするなかれ
(58)-6
現今の日本の教育施設に就ては、まだ足らぬ所のあるのは言ふ迄もないが、限りある経費の関係上、先づ余儀ないものとして之れには言及せぬが、総体に精神教育が閑却されてゐるのは最も遺憾とする処である。どうしてももう少し精神教育に力を注がなければ、今後の世界的国民としての教養が心許ないと思ふ。殊に高等教育に進む前、即ち小学校時代に之れが教養をするの必要があると信ずる。欧米には普通教育の科目に神学科があつて、宗教の事や其他正義人道に関する精神的方面の教育が重んぜられてゐるのであるが、我国に於ては人道を履み、正義を行うて行くといふ所謂精神教育は殆ど皆無と言つてもよい位である。そして徒らに欧米の物質文明のみ趁うて居りながら、近頃思想の悪化とか、左傾とかいふ言葉を耳にするのは、聊か本末を顛倒して居りはしないか。私をして忌憚なく言はしむれば、日本の現今の教育は余りに物質文明にのみ趨り過ぎて、少しく食傷の気味であると云ひたい。然して湿地を嫌ひて低きに赴きつつあるものと云ひたい。湿地を嫌ふならば、須く高い処に行く可きである。敢て世の為政家教育家に此一言を呈する。
- デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.482-488
底本の記事タイトル:三三七 竜門雑誌 第四一〇号 大正一一年七月 : 実験論語処世談(第五十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第410号(竜門社, 1922.07)
初出誌:『実業之世界』第19巻第1,2号(実業之世界社, 1922.01,02)