デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一

6. 精神教育を閑却する勿れ

せいしんきょういくをかんきゃくするなかれ

(58)-6

 一体、真の教育といふ見地よりすれば、人には各〻個性があつて悉く一様でないのであるから、其の才能の寸尺に従うて之れに適応する教育をするのが一番よい。即ち性のよい部分を採つて之れを教へ導き其の天分を完うせしむるやうにするのが理想的なのである。例へば同じ学問にしても、数学には群を抜いた頭脳を有して居るけれども、歴史や地理などが一向に分らぬとか、哲学や宗教には非常に熱心で成績がよいけれども、科学は駄目であるとか、数学が下手であるとかいふ例は幾等もある。又、其の人の性と才能によつて学者として立つに適した人もあり、実業家向の人もあり、技術家としての天分を備へた人もあれば教育家としての素質を持つてゐる人もある。理想的見地よりすれば、斯くの如く各〻性格、才能が異つて居るのであるから、之れを教育するに当つては、各〻特徴を知悉して特別教育を施し、性のよい点を守り進めるやうにするのが最も適当な教育なのであるけれども今日の如き時代に於て、到底之れを満足せしむるやうな教育を望むのは不可能である。されば或る程度までは劃一的教育も止むを得ない事と思ふ。此の点に於ては敢て孔子の能く子弟の性格を見分けて適当の薫陶をされた事と比較しようとするものではないが、現代の教育に於て最も欠点とする処は精神的方面であると思ふ。
 現今の日本の教育施設に就ては、まだ足らぬ所のあるのは言ふ迄もないが、限りある経費の関係上、先づ余儀ないものとして之れには言及せぬが、総体に精神教育が閑却されてゐるのは最も遺憾とする処である。どうしてももう少し精神教育に力を注がなければ、今後の世界的国民としての教養が心許ないと思ふ。殊に高等教育に進む前、即ち小学校時代に之れが教養をするの必要があると信ずる。欧米には普通教育の科目に神学科があつて、宗教の事や其他正義人道に関する精神的方面の教育が重んぜられてゐるのであるが、我国に於ては人道を履み、正義を行うて行くといふ所謂精神教育は殆ど皆無と言つてもよい位である。そして徒らに欧米の物質文明のみ趁うて居りながら、近頃思想の悪化とか、左傾とかいふ言葉を耳にするのは、聊か本末を顛倒して居りはしないか。私をして忌憚なく言はしむれば、日本の現今の教育は余りに物質文明にのみ趨り過ぎて、少しく食傷の気味であると云ひたい。然して湿地を嫌ひて低きに赴きつつあるものと云ひたい。湿地を嫌ふならば、須く高い処に行く可きである。敢て世の為政家教育家に此一言を呈する。

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キーワード
精神, 教育, 閑却, 勿れ
デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.482-488
底本の記事タイトル:三三七 竜門雑誌 第四一〇号 大正一一年七月 : 実験論語処世談(第五十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第410号(竜門社, 1922.07)
初出誌:『実業之世界』第19巻第1,2号(実業之世界社, 1922.01,02)