デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一

7. 濃やかなる師弟の情

こまやかなるしていのじょう

(58)-7

子畏於匡。顔淵後。子曰。吾以女為死矣。曰。子在。回何敢死。【先進第十一】
(子匡に畏る。顔淵後れたり。子曰く。吾れ女を以て死せりと為す 子曰。子在り。回何ぞ敢て死せん。)
 之れは孔子の匡の難に際し、師弟の情の発露したる処である。孔子が匡を通つた時、突然匡人に囲まれて兵難に遇はれたが、孔子の師弟は二日間も一食をも摂らなかつたと云ふ程であつた。後、衛の兵が来て一行を救ひ難を免れたが、此時行を共にしたる顔淵が孔子を見失うて、遅れて駆け着いたので、孔子は喜び迎へて、余はお前が已に死んだかと思つて心配して居つたが、幸ひに無事であつたかと言はれた。顔回之れに答へて、「先生が難を免れて無事に生きてゐらるる以上は何しに軽々しく戦ひに赴いて犬死するやうな事を致しませう」と言つた。之れが此の章の大意である。
 之れについて思ひ出したが、余談に亘るけれども私は曾て孔子の匡の難を脚本に書いたのを読んだ事がある。誰の書いたものであるか、はつきりした記憶はないが、其の場面に現はれる人物が、論語を通じて知られて居る人物の性格が能く表現されて居つた。其中で、子路は狼狽してゐるに反して、顔淵は悠然としてゐる。更に孔子に至つては殆ど平常と何等の異る処がなく、平気で眠つて居られた。個々の性格がよく現はれてゐたので面白く読んだのであつたが、孔子の師弟が皆死を決して居つたものであることは疑ひない。
 さて此の章句には更に別の意味が含まれてゐる。即ち、顔回の「子在、回何敢死」の裏面には「若し不幸にして夫子が危難に遇はるるが如き事があるならば、回は必ず身を捨てて之れを拒ぎ、敵中に死する覚悟である」といふ意味が含まれてゐるのである。昔の師弟は今の師弟と異り、情義が頗る厚い。時には死生を共にするの覚悟があつた。今は勿論時代が異るから、私は決して昔を真似よとは言はぬが、師弟の情義など殆ど薬にしたくも見られないやうな、当今の浮薄さ加減にも呆れる。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.482-488
底本の記事タイトル:三三七 竜門雑誌 第四一〇号 大正一一年七月 : 実験論語処世談(第五十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第410号(竜門社, 1922.07)
初出誌:『実業之世界』第19巻第1,2号(実業之世界社, 1922.01,02)