デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一

3. 孔子門人の性格を評す

こうしもんじんのせいかくをひょうす

(58)-3

柴也愚。参也魯。師也辟。由也喭。【先進第十一】
(柴や愚。参や魯。師や辟。由や喭。)
子曰。回也其庶乎。屡空。賜不受命而貨殖焉。億則屡中。【先進第十一】
(子曰く。回や其れ庶からん乎。屡〻空し。賜は命を受けずして貨殖す。億れば即ち屡〻中る。)
 此の章句は一緒に纏めて、後の方から解釈した方が寧ろ順序が宜しいから、さういふ風にお話をする。
 孔子の門弟の内で、顔回は最も道に近い人である。一向自分で富を致すといふやうな観念は持つてゐなかつた。処が賜、即ち子貢は天命に安んじて道を楽しむことが出来ず、心を貨殖に用ひた。之れ顔回に及ばぬ処である。併しながら其の才識明敏であつて、事を臆度すれば屡〻能く適中する。只貨殖に長ずるが故に、人品に自ら多少の差異がある。柴は子羔の事であるが、変通の才乏しく、重厚に過ぐる嫌ひがあつた。一例を挙ぐれば、其家語に「其足影(孔子の)を履まず、啓蟄を殺さず、方に長ずるは折らず。親の喪を執て泣血三年、未だ曾て歯を明はさず云々」とあるを見ても、其の人と為りを知るに足るであらう。
 参は曾子の名である。曾子は年が若かつたけれども仲々立派な人物であつた。「鳥の将に死せんとするや其声悲し、人の死なんとするや其言や良し」とか、「荷[任]重うして道遠し」など曾子にある事は人の能く知る処である。然し其の人と為りは敏捷でなかつた。それで孔子は之れを評して鈍であると言はれた。師は即ち子張、常に其の威儀を整へ外面を飾るに過ぎて内を修むる工夫を欠き、誠実といふ点に於て足らぬ処があつたので、孔子は此点を指摘された。由は子路の名、剛勇の人であつたから、外貌が粗俗であつて文采に乏しかつた。換言すれば、挙動はテキパキしてよいけれども、言ふ事が確実でなく物事が凡て上品味に欠けてゐた。
 要するに之れは孔子が門人中の数人に就て、其の性格を有りのままに形容されたもので、一面に於ては門弟に対する訓戒とも見るべきであるが、取り立てて現代に当て嵌めて説明する程の事はない。

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デジタル版「実験論語処世談」(58) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.482-488
底本の記事タイトル:三三七 竜門雑誌 第四一〇号 大正一一年七月 : 実験論語処世談(第五十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第410号(竜門社, 1922.07)
初出誌:『実業之世界』第19巻第1,2号(実業之世界社, 1922.01,02)