デジタル版「実験論語処世談」[51a](補遺) / 渋沢栄一

実験論語処世談 (第九十[八十九]回) 明治大帝の懿徳
『実業之世界』第17巻第5号(実業之世界社, 1920.05)p.43-46

子曰。学如不及。猶恐失之。【泰伯第八】
(子曰く。学は及ばざるが如くす。猶ほ之を失はん事を恐る)
 此の句は読んで字の如く、総て学問といふものは其の極所に到らうといふ意志を以て勉めなければならぬもので、寸時も怠る事なく勉強しても之れで充分といふ心を起さずに、尚ほ到らざるの心を以て励まなければならぬといふ事を訓へられたものである。三島先生も「善く走る者を一生懸命に追ひかけて、追ひつき能はざるの心を以て勉強しなければならぬ。急ぎ追ひかけても力足らざる時は、其の人を見失うて往く所を知らざるに至るであらう」と説かれてゐるが、学問も之れと同様で専心一意勉強するも、猶ほ及び難きものであるから、須臾も怠つてはならぬ。
 要するに此の句は篤学を意味したもので、今の有様にして見ると、物理を調べ道理を研究し、真面目に孜々と勉めて居る学者も居らぬではないが、多くは一を知つて十を知つた振りをする広告的学者で、何事も誇張する人があるのは余り喜ばしい事ではない。古人の説などに就ても其の蘊奥を極めずして得々然として喋々する所謂半可通の学者の多いのは全く驚く程であるが、之れを孔子時代の学問の仕方と比較すれば、古への篤学に対し今の学者は軽薄といふ可く、其の差果して幾干であるか知る可きである。孔子は此の点を深く戒められたのであつて、今の人も大に此の点に考へを及ぼして欲しいと希望する。
子曰。巍巍乎舜禹之有天下也。而不与焉。【泰伯第八】
(子曰く。巍巍たり。舜禹の天下を有つや。而るに与らず)
 之れは舜禹の徳を褒め称へたものであつて、巍巍乎とは其の功業の大なる事を山の高きに譬へ、而して其の治め方は衆賢人を挙げ用ひ、各々之に位を授けて政治を行はしめ、己れは上に立つのみにして親ら政事に与らざる如くであつた。之れ舜禹の天下の能く治つた所以であると称賛されたのである。世の中には剛腹自用、人の才能を用ひずして何事も自己の才能を揮ふ人があるが、之れは必ずしも悪るいといふ事は出来ぬけれども、人間は万能でないから如何に才智の優れた人でも完きを期し得られない。而して多数の人の能い智慧、即ち衆智を能く用ふるに於て大なる効果があるのである。
 舜禹の二聖人は共に匹夫より身を起した人であるが、衆智人を集めて能く挙げ用ひ、所謂適材を適所に置いて充分其の才能を発揮せしめし為め天下が能く治つたのであつて、孔子も其の徳を山の高きに譬へて巍巍乎たりと称讃したのである。『然るに与からず』とは全然関せざるに非ずして、与らざるが如しといふ意味である。
 之れは国情を異にする支那の例であるから、我が国に比較するのは少し難かしいが、明治大帝の治め方は、実に此の好適例であると申上げても宜しからうと拝察する。先帝は明治維新に於て三条、岩倉或は西郷、大久保、木戸等の俊傑を挙げ用ひ、憲法制定には伊藤博文を起用し、其他衆智を能く併せ用ひられて今日の盛運を来すに至つた。恰かも『巍巍乎舜禹之有天下也。而不与焉』に適合して居るではないか。斯くの如きは先帝時代に人物の出たのも仕合せの事ではあるが、要するに明治大帝の偉徳の然らしむる処と謂ふ可きであつて、誠に同慶の至りと申さねばならぬ。
子曰。大哉尭之為君也。巍巍乎。唯天為大。唯尭則之。蕩蕩乎民無能名焉。巍巍乎其有成功也。煥乎其有文章。【泰伯第八】
(子曰く。大なる哉尭の君たるや。巍巍乎たり。唯天のみ大なりとす。唯尭之に則る。蕩蕩乎たり民能く名くる事無し。巍巍乎として其れ成功有り。煥乎として其れ文章有るなり)
 此の章は尭の徳を言ふたものであつて「蕩々」とは広遠といふ意味「文章」とは礼学法度の事である。章の意味は二つに分れて居る。即ち「無能名」まで一節であつて尭の徳の高大広遠にして他に比す可きものなく、唯天の大なるに比し得るのみであると讃め、以下其の万民を化育し安寧平和ならしめ其の礼学法度の整ひたる事を称賛したものである。
 此の称賛の言葉は恰かも明治大帝の徳を頌する為めに書かれたものと言ふても差支えないと思ふ。明治大帝の君臨せられて五十年、其の間の政治は全く此の文章通りであつた。先帝当時に比し決して今の政治が劣つてゐるといふ訳ではないが、果して今の天下も同じ様な赤誠の功臣が連なつて居るかどうか疑はしい。若し万一後戻りする様な事があると仮定すれば、夫れは君徳の足らざるに非ずして、群臣の悪るいのである。されば衆心一致して努力し、弥々益々国運の発展に尽し、決して現状に甘んじ気を緩めてはならない。
舜有臣五人。而天下治。武王曰。予有乱臣十人。孔子曰。才難。不其然乎。唐虞之際。於斯為盛。有婦人焉。九人而已。三分天下有其二以服事殷。周之徳。其可謂至徳也已矣。【泰伯第八】
(舜臣五人有り。而して天下治まる。武王曰く予に乱臣十人有りと。孔子曰く。才難しと。其れ然らずや。唐虞の際。斯に於て盛んなりとす。婦人有り。九人のみ。天下を三分して其二を有ち、以て殷に服事す。周の徳は其れ至徳を謂ふ可きのみ。)
 尭より三代の政事を孔子は「先王の政」と称し、之れを王道と名づけて居るが、此の章は、其の当時の有様を茲に例に引いたのであつて、乱とは乱るゝに非ずして反対の治を意味し、婦人とは殷人を指し、賢臣の得難い事を歎じ、併せて尭[、]舜、周の三代の徳を称したものである。此の章は全体を通じ三節に分れて居つて、「有乱臣十人」までが一節、「九人而已」までが二節、以下三節である。是等は事実を述べたのであるから、余り詳しく御話する程の事ではないが、舜には禹、稷、契、皐陶、伯益の五人の賢臣があつて、舜を輔け大に天下が治つた。武王の時代には周公旦、召公奭、太公望、畢公、栄公、太顛、閎夭、散宜生、南宮廷及び膠鬲の十賢人があつて武王を助けたが、此の内膠鬲は殷の人なれば真の周の臣は九人のみである。斯くの如く賢臣を得る事は難かしい。而して文王の時に至りて諸侯の殷に叛くもの続出して多く周に属し天下を三分して其の二を有するに至つた。其の当時は封建制度故、政治が行届き勢力盛んであれば諸侯が帰服したのであるから、若し殷を攻略して天下を取らんとするの心あれば、之れを略取すること容易であつたけれども、文王は依然として殷に服従して臣節を失はなかつた。孔子は其の徳を称賛されたのであるが、支那の如き時々国体の変る国と万世一系の我が国とは比較にならない。
子曰。禹吾無間然矣。菲飲食。而致孝乎鬼神。悪衣服。而致美乎黻冕。卑宮室。而尽力乎溝洫。禹吾無間然矣。【泰伯第八】
(子曰く、禹は吾れ間然すること無し。飲食を菲うして而して孝を鬼神に致し、衣服を悪うして而して美を黻冕に致し、宮室を卑うして而して力を溝洫に尽す。禹は吾れ間然すること無し。)
 禹の君徳の大なるを讃美したものであつて、禹といふ人は家庭的道徳の優れた人であつて、且事業に就ても卓抜し、或は土地の境界を正し、水利を善くする等に力を尽したので、如何なる寒村僻地と雖も、三年居を定むると都となつたと謂はれた程である。而も居常自己の飲食は粗末なるものを用ひて、父祖宗廟の鬼神を祭るには清潔なる供物を豊かにし、礼を厚うして孝を極め、又日常の衣服は粗悪なる物を用ひて祭りの時の服装は美麗なる物を用ひて神を敬し、常住の宮室は茅茨土堦の卑しきに安んじて、人民の為めに農耕の本たる田間の水利に力を尽し、境界を正しくした。斯くの如く福利民福の為めに実践躬行し、自ら範を示して政を司つたので、之れを非議せんと欲するも、毫も非議すべき間隙を見出すこと能はずと深く之れを賛歎されたのである。
 之れも亦明治大帝の御治績にぴつたりと当箝る。前の章に於て恰かも先帝の為めに書かれたものゝ如くであると言ふたが、本章も亦同様である。曾て石黒忠悳男より拝承した事であるが、先帝は平時の御居間の如きは極めて質素に渡らせられたさうで、殊に宮廷炎上の事あるや、永らくの間再建を遊ばされなかつた。今日の朝廷は外国との御交際もある事故、茅茨土堦に甘んずる事は自ら不可能の事に属するを以て、相当の宮殿が建つて居るが、御質素の点に於ては御変りはない。
 更に「菲飲食而致孝乎鬼神」に就ては申上ぐるも畏き次第ながら全く其の通りであつて、平素飲食を奢り給はず諸事簡易を旨とせられ、祖宗を祭らるゝには古式に範り飽迄も厳かに行はせられ至高の範を示された。又た一旦お定めになつた事は之れを猥りに変へさせられる事を好ませられず。一例を挙ぐれば宮内省の正服を御制定になると、終始一貫して之れを屡々御変更になる事を遊ばされない。其の産業の発達に力を尽されし御治績に就ては今更喋々する迄もなく世人周知の事実であつて、今日我が国運の斯くの如く隆盛なるは全く其の御盛徳に拠る処のものである。
 斯くの如く此の章は、明治大帝の為めに造られた言葉と言ふても宜しい程であるが、而し明君賢臣が続かなければ此の盛運が永く持続せざるものなるを以て、我々国民は大に覚悟しなければならぬが、特に政治を補佐するの重任に在る者は深く考慮する処あらねばならぬと信ずる。(小貫生憶記)
底本(初出誌):『実業之世界』第17巻第5号(実業之世界社, 1920.05)p.43-46
底本の記事タイトル:実験論語処世談 (第九十回) 明治大帝の懿徳 / 男爵渋沢栄一