デジタル版「実験論語処世談」[51a](補遺) / 渋沢栄一

4. 賢臣は何時の世にも得難し

けんしんはいつのよにもえがたし

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舜有臣五人。而天下治。武王曰。予有乱臣十人。孔子曰。才難。不其然乎。唐虞之際。於斯為盛。有婦人焉。九人而已。三分天下有其二以服事殷。周之徳。其可謂至徳也已矣。【泰伯第八】
(舜臣五人有り。而して天下治まる。武王曰く予に乱臣十人有りと。孔子曰く。才難しと。其れ然らずや。唐虞の際。斯に於て盛んなりとす。婦人有り。九人のみ。天下を三分して其二を有ち、以て殷に服事す。周の徳は其れ至徳を謂ふ可きのみ。)
 尭より三代の政事を孔子は「先王の政」と称し、之れを王道と名づけて居るが、此の章は、其の当時の有様を茲に例に引いたのであつて、乱とは乱るゝに非ずして反対の治を意味し、婦人とは殷人を指し、賢臣の得難い事を歎じ、併せて尭[、]舜、周の三代の徳を称したものである。此の章は全体を通じ三節に分れて居つて、「有乱臣十人」までが一節、「九人而已」までが二節、以下三節である。是等は事実を述べたのであるから、余り詳しく御話する程の事ではないが、舜には禹、稷、契、皐陶、伯益の五人の賢臣があつて、舜を輔け大に天下が治つた。武王の時代には周公旦、召公奭、太公望、畢公、栄公、太顛、閎夭、散宜生、南宮廷及び膠鬲の十賢人があつて武王を助けたが、此の内膠鬲は殷の人なれば真の周の臣は九人のみである。斯くの如く賢臣を得る事は難かしい。而して文王の時に至りて諸侯の殷に叛くもの続出して多く周に属し天下を三分して其の二を有するに至つた。其の当時は封建制度故、政治が行届き勢力盛んであれば諸侯が帰服したのであるから、若し殷を攻略して天下を取らんとするの心あれば、之れを略取すること容易であつたけれども、文王は依然として殷に服従して臣節を失はなかつた。孔子は其の徳を称賛されたのであるが、支那の如き時々国体の変る国と万世一系の我が国とは比較にならない。

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デジタル版「実験論語処世談」[51a](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第17巻第5号(実業之世界社, 1920.05)p.43-46
底本の記事タイトル:実験論語処世談 (第九十回) 明治大帝の懿徳 / 男爵渋沢栄一