デジタル版「実験論語処世談」[51a](補遺) / 渋沢栄一

1. 半可通の学者の多い今の世の中

はんかつうのがくしゃのおおいいまのよのなか

[51a]-1

子曰。学如不及。猶恐失之。【泰伯第八】
(子曰く。学は及ばざるが如くす。猶ほ之を失はん事を恐る)
 此の句は読んで字の如く、総て学問といふものは其の極所に到らうといふ意志を以て勉めなければならぬもので、寸時も怠る事なく勉強しても之れで充分といふ心を起さずに、尚ほ到らざるの心を以て励まなければならぬといふ事を訓へられたものである。三島先生も「善く走る者を一生懸命に追ひかけて、追ひつき能はざるの心を以て勉強しなければならぬ。急ぎ追ひかけても力足らざる時は、其の人を見失うて往く所を知らざるに至るであらう」と説かれてゐるが、学問も之れと同様で専心一意勉強するも、猶ほ及び難きものであるから、須臾も怠つてはならぬ。
 要するに此の句は篤学を意味したもので、今の有様にして見ると、物理を調べ道理を研究し、真面目に孜々と勉めて居る学者も居らぬではないが、多くは一を知つて十を知つた振りをする広告的学者で、何事も誇張する人があるのは余り喜ばしい事ではない。古人の説などに就ても其の蘊奥を極めずして得々然として喋々する所謂半可通の学者の多いのは全く驚く程であるが、之れを孔子時代の学問の仕方と比較すれば、古への篤学に対し今の学者は軽薄といふ可く、其の差果して幾干であるか知る可きである。孔子は此の点を深く戒められたのであつて、今の人も大に此の点に考へを及ぼして欲しいと希望する。

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デジタル版「実験論語処世談」[51a](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第17巻第5号(実業之世界社, 1920.05)p.43-46
底本の記事タイトル:実験論語処世談 (第九十回) 明治大帝の懿徳 / 男爵渋沢栄一