デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一

6. 侗にして愿を欠くは人間の屑

とうにしてげんをかくはにんげんのくず

(51)-6

子曰。狂而不直。侗而不愿。悾悾而不信。吾不知之矣。【泰伯第八】
(子曰く、狂にして直ならず。侗にして愿ならず。悾悾として信ならずんば、吾之を知らず。)
 「狂にして直ならず」の狂とは、非常に志は大であるが一向その実行はこれに伴はぬものである。然もこういふ狂なるものは、大抵その反面は甚だ正直であつて、表裏の有るものではない。そこで、狂であつても正直であれば、これを教育して相当役に立つ人とすることができるが、若し狂である上に正直でないならば、全く始末におへぬものである。
 又「侗にして愿ならず」の侗とは、無智なるものにして、愿とは謹厚なるものをいふのである。大抵無智なるものは気兼ね深く、律義の心が非常に備はつてをるものであるから、之に道理を説いて聞かせると素直に受け容れて、その無智蒙昧を啓くことが出来、随つて何時かは一人前の人間となることが出来、用を為すに至るのであるが、若し侗にして愿ならずといふのでは、全く手のつけやうが無い。何れから行つても、これを啓発するといふことはできぬ。
 更に「悾々として信ならずんば」悾々とは、無能なる態にして、自分に何等とり所のない無能の人といふものは多くは信実で、人に対して誠実丈けは備はつて居るものである。でその誠実な所を見所として之れを指導しことに当らしむれば、必ずしも全く用を為さぬものといふ訳ではないが、この悾々即ち無能なる人間が、その無能の上に信実といふものを少しも有してゐないとすれば、甚だ以て取り所のないものである。如何に努力すると雖も、このやうな人間は人間らしい人間とすることはできぬ。
 と以上の三つの場合を挙げて、狂でも直であり、侗でも愿であり、悾々でも信であれば、その直、愿、信の点からこれを教育して国家有用の材と為すことができるが、今の多くは狂である上に直ならず、侗である上に愿ならず、悾々である上に信ならずといつて人間として最も憎むべき悪徳の両極端を二つながら有するので、孔子は酷く歎息され全く手の付けやうが無いといつて見離されたのである。
 一体この狂と直、侗と愿、悾々と信といつたやうな徳は、その何れか一つが欠けて居れば、他の一つが備はつて居るのが常であつて、例へば吝嗇の如きは、大抵節倹といふ徳が附物である。即ち極度の節倹の結果が吝嗇となつて来るのである。吝嗇と節倹とは、或る意味に於て余程似通つたものである。で吝嗇はよくないが、その隣りの節倹があれば、多少とり所があるといふ訳である。所が吝嗇であり、然も一方節倹でないといふに至つては、誠に言語道断、沙汰の限りである。孔子はかういふ状態を見られて非常に憂へられたのである。
 然らば今の世の中にはかういふものは少いかといふと、決してさうではない。孔子が居られたなら今も深く歎息されたことであらうと思ふ。今いふ吝嗇の場合を始めとして、狂と志ばかりは大きいが、一向実行の之れに伴はぬものがあり、侗と無智であつても、全く謹厚の態度を失ひ自分の本分を忘れて、学生等が世間の調子に乗つてわいわい騒いで廻るといふ有様で、謹厚の態度を以て充分落着いて勉強するといふやうなものは甚だ少ないやうである。これは甚だ寒心すべきことであつて、孔子を俟つ迄もなく、今にして悔改むるやうにしなかつたならば、甚だ憂ふべき結果を齎しはすまいかと思ふ。

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デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.395-400
底本の記事タイトル:三〇五 竜門雑誌 第三八三号 大正九年四月 : 実験論語処世談(第五十《(五十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第383号(竜門社, 1920.04)
初出誌:『実業之世界』第17巻第3号(実業之世界社, 1920.03)