デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一

4. 道無きに富むは恥なり

みちなきにとむははじなり

(51)-4

 更に「邦道有るに貧且つ賤なるは恥なり。邦道無きに富且つ貴きは恥なり」といふのは、無能か然らざれば只己れ独り利禄を追うて他人の迷惑を少しも顧みぬといふことを説かれたのである。前節に天下道あれば則ち見はれといはれて居るのと通ずるもので、よく天下が治まつて徳あり学あるものは、悉く重く用ひられ、名を為し業を遂げつつある時に、己れは重く用ひられることなく貧しくて且つ賤い状態に居るといふことはその人が畢竟徳も無く学も無く、全く無能であることを暴露するもので、斯くの如きは非常に恥としなければならぬといはれたのである。
 これと反対に、邦に道なく、佞奸邪智が跋扈し、己れ独り政権を壟断し、私利を逞しうするものが横行するといふ乱れた世の中であつて見れば、仮令己れに学と徳とあるにして、君子たるものは隠れて世に見はれぬが至当であるべきに、若しこの乱世に富み且く貴くあるといふことは必ずやこの佞奸邪智の徒に外ならぬものにして、君子としては誠に恥づべきことであると、深く戒められたのである。
 さて日本の現状を見て、一概に道が有るとか道が無いとかといふことは断言し兼ねると思ふ。或るものに就ては充分道の整つたものもあるが、他の或るものに就ては随分如何はしいこともある。随つて貧且つ賤で居ることを恥とする場合もあれば、さうでない場合もある。道の整つて居ることについて富み且つ貴いといふことは甚だよいことであるが、道の無いことについても随分富み且つ貴いものがある。これを具体的にいふとなると甚だ以て耳の痛い人もあることであるから、そこまで突込む訳には行かぬが、これは余程注意せねばならぬことである。

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デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.395-400
底本の記事タイトル:三〇五 竜門雑誌 第三八三号 大正九年四月 : 実験論語処世談(第五十《(五十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第383号(竜門社, 1920.04)
初出誌:『実業之世界』第17巻第3号(実業之世界社, 1920.03)