デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一

1. 名利に走つて真の学なし

みょうりにはしってしんのがくなし

(51)-1

子曰。三年学。不至於穀。不易得也。【泰伯第八】
(子曰く、三年学びて穀に至らざるは、得易からず。)
 此章句には余り深い意味が含まれてはゐないと思ふ。学問を三年しても一向利禄のこと等は眼中に置かず、猶一意専心学問を続けて行かうといふやうな、所謂真に自己の為に学問をするといふ篤学の人は、誠に得難いものであるといふことを意味されてあるやうである。
 至るといふ字を志にする方が良いとかどうとかいふ説があるが、これは三島先生も言はれて居る通り、至るで必ずしも意味の通ぜぬことはないのであるから、それで一向差支へないと思ふ。要するにこの一句の主意とする処は、学問は人の為にするのでもなく、又利禄とか名誉の為にもするものでなくして、己自身の為、又人の人として為すべき道を修むる為にするものに過ぎぬと言はれたのである。
 これが本当の学問で、孔子はこういふ意味の篤学の士の出ることを非常に望まれたのであるが、昔も今も変りはないものと見えて、真にかういふ態度で勉強するものは殆ど無く、得易からずといつて酷く歎息されてをるのである。三年所ではない、僅か一年でも真の学問の為に勉強するものはなくして、唯名誉の為、利禄の為にするのみであるといふものが多かつたと見える。
 殊に今日の状態はかういふ風が非常に盛んで、学問をすることは全く銀行とか会社とかに這入る一階段に過ぎぬと自他共に許してをる。学校等もその通りで、そこは真の勉強をする処ではなくして唯月給を得る為に必要なる肩書を与へる処であるかの如き状態を呈してをる。真面目に一生的に勉強でもしようものなら、丸で世間から迂濶者扱ひにされて了ひ、学者を止めて商人にでもなるといふのが、滔々として天下の大勢を為して居るといふ有様である。
 斯くの如くして真に自己の為の学問、人としての道を修むる為の学問といふものが、悉く地を払つて廃り、只利慾名誉の外は何もなしといふ今日に若し孔子をして在らしめたならば、嘸かし痛歎せられたことであらうと思ふ。何も孔子の口吻を真似る訳ではないが、今日のこの学問の有様を見ると、非常に心配に思ふのである。今の如く唯利禄の為名前を売る為に勉強するのみであつたならば、自然道徳は廃れ、唯権利のみを主張して義務は忘れ、世の中の秩序といふものは何時とはなしに乱れて、遂には収拾することの出来ぬ状態に陥り、果ては自他共に亡びて行かねばならぬといふこととなつて了ふのである。これは、今の中に何とかして真の学問を振興するやうに努めねばならぬと思ふ。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.395-400
底本の記事タイトル:三〇五 竜門雑誌 第三八三号 大正九年四月 : 実験論語処世談(第五十《(五十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第383号(竜門社, 1920.04)
初出誌:『実業之世界』第17巻第3号(実業之世界社, 1920.03)