デジタル版「実験論語処世談」(51) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.395-400

子曰。三年学。不至於穀。不易得也。【泰伯第八】
(子曰く、三年学びて穀に至らざるは、得易からず。)
 此章句には余り深い意味が含まれてはゐないと思ふ。学問を三年しても一向利禄のこと等は眼中に置かず、猶一意専心学問を続けて行かうといふやうな、所謂真に自己の為に学問をするといふ篤学の人は、誠に得難いものであるといふことを意味されてあるやうである。
 至るといふ字を志にする方が良いとかどうとかいふ説があるが、これは三島先生も言はれて居る通り、至るで必ずしも意味の通ぜぬことはないのであるから、それで一向差支へないと思ふ。要するにこの一句の主意とする処は、学問は人の為にするのでもなく、又利禄とか名誉の為にもするものでなくして、己自身の為、又人の人として為すべき道を修むる為にするものに過ぎぬと言はれたのである。
 これが本当の学問で、孔子はこういふ意味の篤学の士の出ることを非常に望まれたのであるが、昔も今も変りはないものと見えて、真にかういふ態度で勉強するものは殆ど無く、得易からずといつて酷く歎息されてをるのである。三年所ではない、僅か一年でも真の学問の為に勉強するものはなくして、唯名誉の為、利禄の為にするのみであるといふものが多かつたと見える。
 殊に今日の状態はかういふ風が非常に盛んで、学問をすることは全く銀行とか会社とかに這入る一階段に過ぎぬと自他共に許してをる。学校等もその通りで、そこは真の勉強をする処ではなくして唯月給を得る為に必要なる肩書を与へる処であるかの如き状態を呈してをる。真面目に一生的に勉強でもしようものなら、丸で世間から迂濶者扱ひにされて了ひ、学者を止めて商人にでもなるといふのが、滔々として天下の大勢を為して居るといふ有様である。
 斯くの如くして真に自己の為の学問、人としての道を修むる為の学問といふものが、悉く地を払つて廃り、只利慾名誉の外は何もなしといふ今日に若し孔子をして在らしめたならば、嘸かし痛歎せられたことであらうと思ふ。何も孔子の口吻を真似る訳ではないが、今日のこの学問の有様を見ると、非常に心配に思ふのである。今の如く唯利禄の為名前を売る為に勉強するのみであつたならば、自然道徳は廃れ、唯権利のみを主張して義務は忘れ、世の中の秩序といふものは何時とはなしに乱れて、遂には収拾することの出来ぬ状態に陥り、果ては自他共に亡びて行かねばならぬといふこととなつて了ふのである。これは、今の中に何とかして真の学問を振興するやうに努めねばならぬと思ふ。
子曰。篤信好学。守死善道。危邦不入。乱邦不居。天下有道則見。無道則隠。邦有道。貧且賤焉。恥也。邦無道。富且貴焉。恥也。【泰伯第八】
(子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず、天下道有れば即ち見はれ、道無ければ即ち隠る。邦道有りて貧且つ賤なるは恥なり。邦道なくして富且つ貴きは恥なり。)
 この章は大分混入つた章であるが、孔子の説かれた目的は、人の身を立て世に処する道を教へられる所にあるやうである。然しどつちかといふと、個人といふことを余り重く見られた結果、若し国家といふ立場から考へて見ると、殊に日本の国家といふ立場から考へて見るとこの章の或る句の如きは俄に適用できかねるものもあるやうである。
 これは大体三段に分れて居つて、最初の「篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす」といふのは、君子の道に処するに当つての心掛けで、篤く信ずるとは、自分の事物に対する判断を確乎たるものとするといふことである。然もこの種の確信を有するが為には学を好むことが大切であつて、若し学を好むことなく、只軽率に何事も是であり善であるとして妄信するやうなことがあつては、決して正しいといふことは出来ぬ。そこで堅く信ずると共に、常に学を励んで、物事に対して是非善悪の正当な批判力を養ふことが大切である。
 斯くて正当なる批判力に依つて自分が是であり善であると堅く信じたことは、これを十分に固持し、主張して、飽迄も貫徹することに努めねばならぬ。これが即ち道を全うするといふものである。飽迄も貫徹せんとして、時にはその身に危害の加はるといふやうな場合がないとも限られぬ。さういふ場合に臨んでも、苟も君子たるものはそれが為に自分の信念を枉げるといふやうなことがあつてはならぬ。
 これは所謂孔子の「威武も屈する能はず、富貴も淫する能はず」といつたやうな巍然たる態度をいつたものである。この心掛けは今日の日本にも必要のことであつて、自身には何等確信の無い、心にも無いやうなことを唯世間や新聞で騒ぎ立てるからといつて、尻馬に乗つて騒ぎ廻るといふことはこの孔子の教に全く反するもので、甚だ尊敬し難いものである。徒に喧騒を事とする前に先づ退いて学を好み、依つて以て正当なる批判に依り、正しい確信を造ることが必要である。で真に確信が出来たら、そこで死をも賭してその志す道に勇往邁進するがよい。勇往もしなければ、さうかといつて退いて諄々と勉強するでもないといふのでは、全く始末におへぬ。余程よくこの点は考へねばならぬと思ふ。
 次に「危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道有れば即ち見はれ道なければ則ち隠る」といふのは、人の去就について採るべき態度を明かにされたものであるが、これ等字義から見ると、周の封建時代には難なく適用できるのであるが、我が国の如きに向つては俄にその儘当て嵌めるといふ訳には行かぬかも知れぬ。
 危邦といふのは将に乱れ亡びんとする国であつて、そのやうな国には足を踏入れるなといはれるのであるが、日本等に於て国民たるものは、国家が危くなつたからといつて足を入れないで逃げ出す等といふことは到底有り得べからざること、又、許すべからざることである。若し不幸にして国家の危急存亡にでも関するといふやうな時でもあつたならば、それこそ一命を賭してもその回復再生に努めねばならぬ。これは字義通りその儘では一寸日本に応用でき兼ねるのである。然し恐らく孔子の意志はそこには有るまいと思ふ。同じ論語の中に子路の問に答へて、「今の成人とは、何ぞ必ずしも然らん。利を見て義を思ひ危きを見て命を授け」と孔子が言はれて居る。これに依つて見れば、既に自身の仕へて居る国が危くなつた時には、一命をも授けるのが即ち成人であり、君子であるといつて居られるのである。日本が危くなつたからといつて、亜米利加に籍を移す等といふことは、断じて許すことができぬのである。
 然しこれは孔子が、人といふことに重きを置かれて言はれた言葉であつて、周のやうに封建時代には止むを得ぬことである。互に諸侯が覇を唱へんとして居る時で、真に安んじて一命を托し兼ねるといふ時勢であつて見れば、先づ成る可く危きに近づかないで己れの身を全うすることが君子としては正しい道であるとしたのである。然し我が国に於てはそんな消極的のことは許されぬ。若し危邦乱邦であつたならば、自ら陣頭に馬を進めて国家の改造善導に努めねばならぬ。そこで私の考へとしては、一歩を進めて積極的に常に国家の為に努め、危邦たることから避けしめねばならぬとするのである。
 天下道有れば則ち見はれ、道無ければ則ち隠る、とは上に述べた如く危邦乱邦があつて何処でも見はれるといふ訳には行かぬが、天下は広いもので、若し何れか道が具つて居る国があれば宜しく行つて天下に見はれるがよいといはれたのである。然し何程乱邦であり危邦であつたにしても、その人が真に賢者であり偉人であつたならば、その人自身が見はれまいとしても必らず世間一般の尊敬が向けられ、知らず識らずの中に天下に名を為し見はれて来るのであつて、孔子自身が其通りである。孔子自身は乱邦であれば、格別自ら求めて見はれようとされた訳でもないが、自然と周囲のもの、後世のものが、賢者として崇敬の念を払ひ、何時とはなしに見はれて了はれたのである。
 が然し孔子の如きは特に優れた人であつたから勢ひさうであつたのであるが、それ迄に行かぬ人は乱邦に居ても他から自然と見はして呉れるといふ訳には行かず、さういふ時に臨めば却てその身を傷けるやうになるから、本当に道があればこれに依つて名を為すもよいが、道の行はれぬ所には行かないで、寧ろ隠れてその身を全うするに如ずかと戒められたのである。徒らに危きに近づいて遂にその身をも亡し、然も何等世の中に貢献する所もないといふのは、如何にも君子たるものの恥とせなければならぬ所である。今日の世の中には之れと等しいことはよくあることで、孔子のこの戒めは今も昔も応用できるのである。
 更に「邦道有るに貧且つ賤なるは恥なり。邦道無きに富且つ貴きは恥なり」といふのは、無能か然らざれば只己れ独り利禄を追うて他人の迷惑を少しも顧みぬといふことを説かれたのである。前節に天下道あれば則ち見はれといはれて居るのと通ずるもので、よく天下が治まつて徳あり学あるものは、悉く重く用ひられ、名を為し業を遂げつつある時に、己れは重く用ひられることなく貧しくて且つ賤い状態に居るといふことはその人が畢竟徳も無く学も無く、全く無能であることを暴露するもので、斯くの如きは非常に恥としなければならぬといはれたのである。
 これと反対に、邦に道なく、佞奸邪智が跋扈し、己れ独り政権を壟断し、私利を逞しうするものが横行するといふ乱れた世の中であつて見れば、仮令己れに学と徳とあるにして、君子たるものは隠れて世に見はれぬが至当であるべきに、若しこの乱世に富み且く貴くあるといふことは必ずやこの佞奸邪智の徒に外ならぬものにして、君子としては誠に恥づべきことであると、深く戒められたのである。
 さて日本の現状を見て、一概に道が有るとか道が無いとかといふことは断言し兼ねると思ふ。或るものに就ては充分道の整つたものもあるが、他の或るものに就ては随分如何はしいこともある。随つて貧且つ賤で居ることを恥とする場合もあれば、さうでない場合もある。道の整つて居ることについて富み且つ貴いといふことは甚だよいことであるが、道の無いことについても随分富み且つ貴いものがある。これを具体的にいふとなると甚だ以て耳の痛い人もあることであるから、そこまで突込む訳には行かぬが、これは余程注意せねばならぬことである。
子曰。不在其位。不謀其政。【泰伯第八】
(子曰く、其の位に在らざれば、其の政を謀らず。)
 この章は、己れの職分以外に向つて容喙することなく、その分を能く守ることを示されたものであるが、この頃のやうに世間一般が政事のことに容喙して、乳臭い学生迄が権利呼ばはりをするやうになつては、果して何れが正当であるか、私も甚だ迷はざるを得んのである。
 殊にこの頃は普通選挙が喧しくなつて、私の処などにも若い学生の方が押かけて来て、普通選挙に対して私は何う考へるかといふやうなことを尋ねられた。私としては普通選挙は良いことだと思ふ。決して悪いことだとして反対するやうなことはない。只之等の学生等が、果してその学生としての本分を尽して居られるであらうかどうか、若し学校の勉強等をそつちのけにして、只世間の調子に乗つたり、真に心からの自覚があるでもないのに一時の奇を好んでさういふ態度に出でるといふのであれば、それは甚だ賛成し難いのである。
 若しさうだとすると、本当に根底のある訳でもないから、愈〻最後の今一息といふやうな場合に力が抜けて豹変するやうなことになり、今迄骨を折つたことは、丸で何の為にしたのか少しも分らなくなつて了ふ。私は之等の運動を決して悪いとか価値の無いものであるとは言はぬ。私自身に於ても、徳川幕府の外交政策について容喙しようとしたこともあるのである。其位にゐないからといつて、国家の為にならぬと知つたときは、必ずしも口を閉ぢて居る必要はなからう。否真に国家の危急存亡といふやうな場合には、自らその陣頭に馬を進めて命を捨てる丈けの覚悟と誠意とがなければならぬ。然しこれは何処までも真に自己の本分を尽し、又真に国家の前途を憂慮してからのことである。只一時の気まぐれから来るやうなことは、断じてあつてはならぬ。で今日学生諸君が普選運動を行られるは良いとして、只事の本末を顛倒することなく、よく自己の本分を尽し、又真の自覚の下に立つたものであつて欲しいのである。然しこの論語の言葉から推して考へて見ると、さういふことさへも屡〻あつてよいものかどうか、余程考へねばならぬ。
子曰。狂而不直。侗而不愿。悾悾而不信。吾不知之矣。【泰伯第八】
(子曰く、狂にして直ならず。侗にして愿ならず。悾悾として信ならずんば、吾之を知らず。)
 「狂にして直ならず」の狂とは、非常に志は大であるが一向その実行はこれに伴はぬものである。然もこういふ狂なるものは、大抵その反面は甚だ正直であつて、表裏の有るものではない。そこで、狂であつても正直であれば、これを教育して相当役に立つ人とすることができるが、若し狂である上に正直でないならば、全く始末におへぬものである。
 又「侗にして愿ならず」の侗とは、無智なるものにして、愿とは謹厚なるものをいふのである。大抵無智なるものは気兼ね深く、律義の心が非常に備はつてをるものであるから、之に道理を説いて聞かせると素直に受け容れて、その無智蒙昧を啓くことが出来、随つて何時かは一人前の人間となることが出来、用を為すに至るのであるが、若し侗にして愿ならずといふのでは、全く手のつけやうが無い。何れから行つても、これを啓発するといふことはできぬ。
 更に「悾々として信ならずんば」悾々とは、無能なる態にして、自分に何等とり所のない無能の人といふものは多くは信実で、人に対して誠実丈けは備はつて居るものである。でその誠実な所を見所として之れを指導しことに当らしむれば、必ずしも全く用を為さぬものといふ訳ではないが、この悾々即ち無能なる人間が、その無能の上に信実といふものを少しも有してゐないとすれば、甚だ以て取り所のないものである。如何に努力すると雖も、このやうな人間は人間らしい人間とすることはできぬ。
 と以上の三つの場合を挙げて、狂でも直であり、侗でも愿であり、悾々でも信であれば、その直、愿、信の点からこれを教育して国家有用の材と為すことができるが、今の多くは狂である上に直ならず、侗である上に愿ならず、悾々である上に信ならずといつて人間として最も憎むべき悪徳の両極端を二つながら有するので、孔子は酷く歎息され全く手の付けやうが無いといつて見離されたのである。
 一体この狂と直、侗と愿、悾々と信といつたやうな徳は、その何れか一つが欠けて居れば、他の一つが備はつて居るのが常であつて、例へば吝嗇の如きは、大抵節倹といふ徳が附物である。即ち極度の節倹の結果が吝嗇となつて来るのである。吝嗇と節倹とは、或る意味に於て余程似通つたものである。で吝嗇はよくないが、その隣りの節倹があれば、多少とり所があるといふ訳である。所が吝嗇であり、然も一方節倹でないといふに至つては、誠に言語道断、沙汰の限りである。孔子はかういふ状態を見られて非常に憂へられたのである。
 然らば今の世の中にはかういふものは少いかといふと、決してさうではない。孔子が居られたなら今も深く歎息されたことであらうと思ふ。今いふ吝嗇の場合を始めとして、狂と志ばかりは大きいが、一向実行の之れに伴はぬものがあり、侗と無智であつても、全く謹厚の態度を失ひ自分の本分を忘れて、学生等が世間の調子に乗つてわいわい騒いで廻るといふ有様で、謹厚の態度を以て充分落着いて勉強するといふやうなものは甚だ少ないやうである。これは甚だ寒心すべきことであつて、孔子を俟つ迄もなく、今にして悔改むるやうにしなかつたならば、甚だ憂ふべき結果を齎しはすまいかと思ふ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.395-400
底本の記事タイトル:三〇五 竜門雑誌 第三八三号 大正九年四月 : 実験論語処世談(第五十《(五十一)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第383号(竜門社, 1920.04)
初出誌:『実業之世界』第17巻第3号(実業之世界社, 1920.03)