デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.89-94

子曰。三年無改於父之道。可謂孝矣。【学而第一】
(子曰く、三年父の道を改むる無きは、孝と云ふべし。)
 支那では、父母の喪を三年としたものである。孔夫子は茲に掲げてある章句に於て、喪中の三年間だけ、仮令先考の遺した家法に気に入らぬ点があつたからとて、容易に之を改むるべきもので無い――それが孝子の道であると教へられたのである。然し三年とかつきり年限を切られたのには、さまで深い理由があるのでは無い。ただ支那では父母に対する服喪期間を三年としてあるからの事で、年数などは其国々の国情に応じ伸縮して然るべきものである。のみならず、如何に先考の遺した家道であるからとて、周囲の事情が先考の死後直ぐに之を改むるを必要とする場合には、改むるのが却つて孝子の道である。徒に孔夫子の説かれた章句の文字にのみ拘泥して、先考の遺法は理が非でも三年間は改めてならぬものだといふやうな意味に解釈すべきでは無い。須らく孔夫子が説かれた章句の精神を酌み取り、之を遵奉するやうに致すべきである。
 然し又世の中には、先考の墳墓の土が未だ乾きもせぬうちから、兄弟の間で遺産争ひを致したり、先考が粒々辛苦の汗を流して購入した田地田畑を売り払つて、勝手気儘な馬鹿遊びに之を費消したり、投機に手を出して見たりなぞするものがある。孔夫子は斯る不心得の輩が生ずることを憂へられて、斯の章句にある如き教訓を遺されたものと思はれる。要するに論語にある斯の章句より学ふべき処は其精神で、決して其形式では無い。先考の遺法は、三年の喪中之を改めぬといふほどの精神で居りさへすれば、子として履むべき道を過る如き事も無く、孝を遂げられるものだと説かれたのである。之に就て私の実験した事を少しばかり談話して置かう。
 私の父は、これまで談話したうちにも申述べ置いた通りで、藍玉の売買を家業に致して居つたものである。これは、純然たる農業と申すものでもなく半農半工、その上に猶ほ商までも兼ねた業体で、藍の栽培は農であるが、之を藍玉に製造するのが工、之を売買するのが商である。父は斯の藍玉売買を家業とし、之によつて生活を立てて居つたといふ丈けでは無い。家業に非常な趣味を持つて、年々歳々前年よりも良い藍玉を多く製造して売るといふ事を楽みにして暮らされたものである。
 随つて父は藍を栽培する地方の農業者間にも頗る評判が良く、渋沢は良い藍で無いと買はぬから、今年は一つ渋沢に買ひ取つて賞めてもらふやうになりたいものだなどと、孰も栽培に苦心して年々益々良い藍が出来るやうになつたものである。父は農家より藍葉を買ひ取り、之を藍玉に製造して紺屋に売り渡したものであるが、紺屋の方にも父の売る藍玉は頗る好評で、前年よりも今年の藍玉は上質であるなぞと賞めらるれば、父は之を又無き愉快として悦び、自分の家で売る藍玉の品質と産額とが年々歳々進歩してゆくのを見て、之に無上の楽みを感じて居られたものである。然し紺屋から受取る勘定は一年僅かに二回で、総て懸売となり、藍玉の製造が終つたところで之を紺屋に渡しても現金は手に入るのでなく、紺屋はその藍玉を使つて得意先きの依頼に応じ染物を染めて利潤を揚げ、藍玉の代金は盆と暮とに纏めて父に支払ふといふ事に、地方の習慣がなつて居つたのである。
 私は廿四歳に郷里を出てから、是まで既に申述べおける如き径路によつて仏蘭西に留学し、維新になつてから帰朝し、六年目に廿九歳で父に再会し、郷里にも久方振りで帰つたのである。然し私は父の家業を継いで藍玉売買に従事するわけにも参らぬので、妹に婿を迎へて生家の嫡流を継がせることに致したのであるが、父は明治四年十一月、私が造幣寮の事業を整理する為に大阪に出張中死病に冒されたのである。十五日に私は東京に帰つて之を聞いたものだから、直ぐ郷里に駆けつけたのであるが、その時父は既に重態に陥つて居つたのである。
 私が郷里に帰つて父の病床に侍した時には、父は余程脳を冒されて居つたものと見え、昏睡状態に陥り、人事不省であつたのだが、幸にも少時昏睡状態より醒めた時があつたので、私は後事に関する遺言でもあらば聞いて置かうと存じ、それと無く「私が居るから何も御心配になる必要は無い、然し御話でもあらば伺つて置きませう」と暗に遺言を促すと「御身さへ居れば万事安心である。私は別に心配する事も何も無い、又、話して置かうと思ふ事も無い」と申されたので、その上強ひて遺言を迫るわけにも参らず、そのまゝになつて、父は歿後の家業は如何するかなどといふ事に就ては一切決定せず、其月の廿二日六十三歳で歿せられたのである。
 父に歿くなられて見ると、直ぐ起る問題は生家の商売の藍玉家業を如何処分したら可からうかといふことである。この時に直ぐ私の頭に浮んだものは論語にある茲に掲げた「三年父の道を改むる無きは孝と謂ふべし」の章句であつた。父が歿くなられたからとて、直ぐ父が楽しみにして営んで居られた商売を廃してしまつては、孔夫子が「三年父の道を改むる無きは孝と謂ふべし」と説かれたところに反くやうに思はれる。然し、藍屋商売は総て懸売になるので、決して手軽な商売では無い。父であつたればこそ旨く経営されたのだが、妹の婿では兎ても遣つてゆけさうに、私には思はれなかつたのである。依て此の際ナマジヒに藍屋商売を継続してゆくことにしては、家名を堕し先考の名にも傷をつけるやうな事にもなつたりなぞして、孝行の心算で為る所置が却つて不孝になりはせぬかと考へたので、私は生家の後を継ぐ妹婿に向ひ、断然藍屋を廃業るようにと勧めることにしたのである。
 そこで私は妹婿に対ひ、「藍屋商売も懸売になるもので却々面倒な事業だから、貴公では何うも斯の業を継いで繁昌さしてゆく事は六ケしさうに思はれる。あれは、先考にして始めてできた事業である。或は私ならば、斯の業を継いで繁昌さしてゆけるやうになるかも知れぬが、今更私が故郷に帰つて親ら藍玉の売買を経営するわけにも参らぬのみならず、藍屋といふ商売が今後も果して従来の如く繁昌するや否やさへ疑問である。貴公は私の観る所では、斯の商売に適当せぬ仁らしいから、藍屋は綺麗に廃業してしまはれることになされたら宜しからう。藍の売買に用ひて来た資金は、私が東京で利殖してあげるやうにする。お前等は田畑の耕作から丈け収益を挙げるやうにしなさればそれで宜しい」と申したので、婿も妹も私の勧めに従ひ、父の死後は藍屋を廃業してしまつたのである。
 然し先考の代から紺屋の方へ貸になつてる藍玉の懸売代金がある。廃業と同時に之を回収せねばならぬのであるが、之を急に回収しようと、如何に燥つて見たからとて、それは迚もできるものでは無い。依て其処は「三年父の道を改めざるは、孝と謂ふべし」と孔夫子の説かれた所に随つて、何でも急がずゆる〳〵無理をせず気永に回収することにしたら宜しからうと私より妹の婿に勧め、妹の婿も亦その気になつて、無理な所のないやうにゆる〳〵回収したのであるが、斯くして手に入つた資金で、私は第一国立銀行の株を生家に持たせるやうにしたのである。ところが仕合と第一銀行の株は高くなつて儲かるし、一方に於て又藍玉の商売は独逸の人造藍が盛んに輸入せらるるやうになつた結果、段々衰へることになつたので、妹の婿は私の勧めに随ひ、藍屋を廃業た事を非常に悦んで居られる。若しも父の歿くなつた時に藍玉は先考の家業であるからとて猶ほ之を継続して居つたら、或は父より譲受けた家産も、今頃は業に已に潰してしまつたかも知れぬなどと、妹の婿は時折思ひ出しては今でも私に話すのである。されば私の生家の如き場合に於て、先考の遺した家業を改めたといふ事は決して孝道に反いたわけにならず、却て孝を完ふしたわけにならうかと思ふのである。三年父の道を改めてはならぬと孔夫子の説かれた精神は、父が歿くなつたからとてこれで既う喧しく小言をいふ者も無いからなぞと、我儘気儘な真似をしてはならぬといふところにある。
子曰。君子欲訥於言。而敏於行。【里仁第四】
(子曰く、君子は言に訥にして、行に敏ならんことを欲す。)
 実業之世界社の野依君なぞは、茲に掲げてある章句の反対で、言には敏で行が之に副はぬといふ譏のある人かも知らんが、孔夫子の御弟子の子路の言として論語子路篇にも戴せられてある如く、「君子言之必可行也。君子於其言。無所苟而已矣。(君子は之れを言へば必ず行ふべき也。君子は其言に於て、苟もする所なきのみ)で君子は弁説を是れ事とする口端のみの勇者とならず、言ふよりも先づ行はんことを心懸くるものである。自ら実行し得られもせぬことをベラベラ油紙に火を点けたやうに喋舌り立てて見たところで、その弁説には何の権威も無いものである。弁説の権威は之を身に体して実行する事によつて始めて生ずるものである。道を天下に行はんとする心懸けのある君子が、言に訥にして行に敏ならん事を欲し、一言一句を苟もせず、言へば必ず之を行ふのは実に之が為めである。弁説に権威が無くなつてしまへば、如何に千万言を吐いたからとて、それは世道人心に何の裨益をも与へ得ぬ事になる。
 然ればとて、日本にも欧米の如く言論を重んずる風の漸く行はるるやうになつた今日の時代に於ては、如何に政治上の事や社会上の事などに関して意見があつても、自ら其衝に当つて実行し得る位置に就かぬ限り、一切評論がましい事をしては相成らぬ、又雄弁なぞも不必要であるといふ如き意味に解釈してはならぬ。社交の円満を図る為めには、シンネリムツツリとせずに愉快に話し合ふことも必要である。自分の意志を徹底的に発表する為めには、雄弁を揮ふ事も亦必要であらうが、孔夫子の趣旨は要するに法螺を吹いてはならぬ、人間に尊むべきものは弁説で無くつて行ひである、不言実行だといふにある。私の知つて居る維新当時の英雄のうちで、西郷隆盛さんなどは、或は「行に敏」とまで謂ひ得られぬかも知れぬが、兎に角平素は黙々として居られながら、行ふべしと考えられた事は言はずして之を決行せられた方で、言ふよりも行ふ方の人、即ち不言実行の人であらせられたやうに思はれる。
 私の観るところ山県有朋公なぞも孰れかと謂へば、矢張大西郷さんなどと等しく、言に訥にして行に敏く、余り口数を多くきかれはせぬが、行はんとする処を行つてゆかれる不言実行の人であるかの如くに思はれる。
 大隈侯は山県公などとは違つて、言ふ処を必ずしも行ふといふ人では無いが、伊藤博文公は言ひ且つ行ふ人であつた。行に敏なると共に又言にも敏であつたのが是れ伊藤公である。伊藤公が公事を議する時の談論振りに就ては、既に申上げ置いた通りであるが、個人的に膝を交へて換される座談などに於ても、総て条理の整然として一糸乱れざるところがあつて、一寸しても「資治通鑑」だとか「左氏伝」だとかにある事例などを引用せられたものである。伊藤公は単に漢籍の造詣のみならず、西洋の学問も却々深かつたので、座談なんかに於ても、引証が該博であつたものである。
 井上侯とても決して学問の無かつた人では無い。仮令伊藤公までゆかぬにしても兎に角、学問のあつた方である。然し伊藤公のやうに条理整然たる筋道の貫つた議論の出来なかつた方で`形勢が面白く無くなつて来たとか、国家に不利益現象が顕れて来たとか云ふ時にでもなれば、整然たる条理によつて之を是非論評するといふ事をせずに「それでは大変だ」とか「そんな馬鹿な真似をされて堪るものか」と謂つたやう調子で、大きく握んだ議論だけをガヤガヤとせられたものである。然し行には全く敏で、殊に形勢を看取することにかけては最も敏な人であつたから、世の中が如何な風に動いてゆくものか、之を逸早く察知してそれ〴〵臨機の処置を講じ、当面の形勢に応じて片つ端から之を片付けてゆく事には、実に妙を得て居られたものである。単に日本国内の形勢推移を看取するに敏であらせられたのみならず、世界の形勢を看取することにかけても却々敏で、之に対する処置も総て機敏に行つてゆかれたものである。旁々井上侯は、孰れかと謂へば言に訥、行に敏であつた人であつたと申上げるのが、当を得たものだらうと思はれる。
子曰。徳不孤。必有隣。【里仁第四】
(子曰く、徳は孤ならず、必ず隣あり。)
 弘法大師が高野山を開かれた時には、其処に多数の民衆が寄り集つて来たものである。新しい会社が一つ起つて、是まで辺鄙であつた土地に何か工場を建てるやうなことにでもなれば、矢張そこには民衆が多く集つて来て、その工場の出来た土地が昔と打つて変つた繁昌を来すやうになるものである。足尾であるとか、小坂であるとかいふ土地も、素は余り人の往来せぬ山奥であつたが、そこから巨額の銅が産るといふ事になれば、一朝にして変じて彼の如き繁華な土地になる。これ等は、利害関係によつて民衆が利のある処へ、蟻の甘きに寄る如く寄り集つて来る例だが、徳のある人も決して孤立の位置に立つやうなことのあるものでは無い。必ず精神的に其徳に共鳴し、其徳を崇敬して慕ひ懐く人を生じ、隣があるやうになると共に物質的にも亦其徳のある人の住んでる処へは、群衆が寄り集つて来て隣家の多くなるものである。
 昔、大舜が居を構へた処には、移住して来る者が多く、忽ち市を為して其土地が繁昌するやうになつたものだとさへ伝へられる。早い話が徳の高い名誉のある人の家の近所に住ふ者は、何となく自分も徳ある人間に為つたかの如くに感ずるものである。近江聖人と崇められた中江藤樹先生の住んで居られた近江高島郡小川村などへは、その徳を慕つて寄り集つて来た者が多く、途中で藤樹先生に御逢ひすれば、村の者は皆道を譲つたものださうである。又、二宮尊徳先生が相馬の中村に住まはれて居つた時にも、矢張、尊徳先生の徳を慕つて其土地に多くの人が寄り集つて来たものである。藤樹先生も尊徳先生も共に実践躬行の人で、藤樹先生が曾て京都に赴かるる途中、駕の中から駕夫に人の践むべき道に就て平易に談られると、駕夫は之を聞いて感動し涙を流したといふほどのものである。又尊徳先生が民を諭さるる時にはまづ至誠を以て懇切に説き示し、話して居らるるうちには、御自分でも流涕せらるるほどであつたので、其感化の及ぶ所は実に甚大なるものであつたと伝へられる。
子游曰。事君数。斯辱矣。朋友数。斯疎矣。【里仁第四】
(子游曰く、君に事ふるに数々すれば茲に辱められ、朋友に数々すれば茲に疎んぜらる。)
 茲に掲げた章句は、君に対して諫言を上つたり、朋友に対して苦言を呈したりする時の心得を教へられたもので、諫言や苦言は、余り数々繰返すと、害にこそなれ却つて益の無いものだといふにある。何でも諫めさへすれば可い、小言を曰ひさへすれば可いといふものでは無い。同じく諫言し、同じく苦言するにも、却々手心を要するものである。重ね重ね繰返し繰返し諫言苦言を続けると、如何に親密なる主従の間でも将た朋友の間でも、遂には御互に気まずくなつて、主君より暇を取らねばならぬやうになつたり、朋友と絶交せねばならぬやうになつたりするものである。全く関係を絶つて離れてしまへば、如何に主人の欠点を改めさせよう、朋友の悪い所を矯正してやらうと思つても、到底それはできるもので無い。されば、全く暇を取つてしまつたり、絶交してしまつたりするよりは、兎に角関係を絶たぬやうにしてさへ居れば、永い歳月のうちには善い方に、主人なり朋友なりを導いてゆけるやうになるものである。縁無き衆生は度し難いが、縁を断たぬやうにして居りさへすれば、結局度し得らるることにもなるものである。
 それであるから私は、極々親しい間柄の人だとか、或は又齢のいかぬ青年だとかに対つての外は、如何に諫言苦言を呈しても到底聞き容れず、如何に言うて見たところで効の無いやうな人には、余り諫言苦言などを呈せぬことにして居る。実際自分と処世の流儀を全く異にして居る人に対しては、如何に自分の意見を述べて元の通りにさせようとして見ても、それは全く無益の徒労になつてしまふものである。
 自分で実際其衝に当らねばならないことで、自分の同意のできぬやうな意見に賛成しろと勧められた場合には、私は勿論断然と其衝に当る事を謝絶してしまうが、他人が躍起になつて試みらるる評論などで私が之に賛成の意を表し得られぬ場合には、一切自分の意見がましいものを述べず、唯黙して止む事にして居る。然しこれは私も齢が加つて老熟した結果で、若い時分には随分よく他人の意見に反抗して盛んに議論を上下したりなど致したものである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.89-94
底本の記事タイトル:二一九 竜門雑誌 第三四〇号 大正五年九月 : 実験論語処世談(一六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第340号(竜門社, 1916.09)
初出誌:『実業之世界』第13巻第16号(実業之世界社, 1916.08.01)