6. 山県、大隈、伊藤、井上諸公
やまがた、おおくま、いとう、いのうえしょこう
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大隈侯は山県公などとは違つて、言ふ処を必ずしも行ふといふ人では無いが、伊藤博文公は言ひ且つ行ふ人であつた。行に敏なると共に又言にも敏であつたのが是れ伊藤公である。伊藤公が公事を議する時の談論振りに就ては、既に申上げ置いた通りであるが、個人的に膝を交へて換される座談などに於ても、総て条理の整然として一糸乱れざるところがあつて、一寸しても「資治通鑑」だとか「左氏伝」だとかにある事例などを引用せられたものである。伊藤公は単に漢籍の造詣のみならず、西洋の学問も却々深かつたので、座談なんかに於ても、引証が該博であつたものである。
井上侯とても決して学問の無かつた人では無い。仮令伊藤公までゆかぬにしても兎に角、学問のあつた方である。然し伊藤公のやうに条理整然たる筋道の貫つた議論の出来なかつた方で`形勢が面白く無くなつて来たとか、国家に不利益現象が顕れて来たとか云ふ時にでもなれば、整然たる条理によつて之を是非論評するといふ事をせずに「それでは大変だ」とか「そんな馬鹿な真似をされて堪るものか」と謂つたやう調子で、大きく握んだ議論だけをガヤガヤとせられたものである。然し行には全く敏で、殊に形勢を看取することにかけては最も敏な人であつたから、世の中が如何な風に動いてゆくものか、之を逸早く察知してそれ〴〵臨機の処置を講じ、当面の形勢に応じて片つ端から之を片付けてゆく事には、実に妙を得て居られたものである。単に日本国内の形勢推移を看取するに敏であらせられたのみならず、世界の形勢を看取することにかけても却々敏で、之に対する処置も総て機敏に行つてゆかれたものである。旁々井上侯は、孰れかと謂へば言に訥、行に敏であつた人であつたと申上げるのが、当を得たものだらうと思はれる。
- デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.89-94
底本の記事タイトル:二一九 竜門雑誌 第三四〇号 大正五年九月 : 実験論語処世談(一六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第340号(竜門社, 1916.09)
初出誌:『実業之世界』第13巻第16号(実業之世界社, 1916.08.01)