デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一

8. 絶交するの必要無し

ぜっこうするのひつようなし

(16)-8

子游曰。事君数。斯辱矣。朋友数。斯疎矣。【里仁第四】
(子游曰く、君に事ふるに数々すれば茲に辱められ、朋友に数々すれば茲に疎んぜらる。)
 茲に掲げた章句は、君に対して諫言を上つたり、朋友に対して苦言を呈したりする時の心得を教へられたもので、諫言や苦言は、余り数々繰返すと、害にこそなれ却つて益の無いものだといふにある。何でも諫めさへすれば可い、小言を曰ひさへすれば可いといふものでは無い。同じく諫言し、同じく苦言するにも、却々手心を要するものである。重ね重ね繰返し繰返し諫言苦言を続けると、如何に親密なる主従の間でも将た朋友の間でも、遂には御互に気まずくなつて、主君より暇を取らねばならぬやうになつたり、朋友と絶交せねばならぬやうになつたりするものである。全く関係を絶つて離れてしまへば、如何に主人の欠点を改めさせよう、朋友の悪い所を矯正してやらうと思つても、到底それはできるもので無い。されば、全く暇を取つてしまつたり、絶交してしまつたりするよりは、兎に角関係を絶たぬやうにしてさへ居れば、永い歳月のうちには善い方に、主人なり朋友なりを導いてゆけるやうになるものである。縁無き衆生は度し難いが、縁を断たぬやうにして居りさへすれば、結局度し得らるることにもなるものである。
 それであるから私は、極々親しい間柄の人だとか、或は又齢のいかぬ青年だとかに対つての外は、如何に諫言苦言を呈しても到底聞き容れず、如何に言うて見たところで効の無いやうな人には、余り諫言苦言などを呈せぬことにして居る。実際自分と処世の流儀を全く異にして居る人に対しては、如何に自分の意見を述べて元の通りにさせようとして見ても、それは全く無益の徒労になつてしまふものである。
 自分で実際其衝に当らねばならないことで、自分の同意のできぬやうな意見に賛成しろと勧められた場合には、私は勿論断然と其衝に当る事を謝絶してしまうが、他人が躍起になつて試みらるる評論などで私が之に賛成の意を表し得られぬ場合には、一切自分の意見がましいものを述べず、唯黙して止む事にして居る。然しこれは私も齢が加つて老熟した結果で、若い時分には随分よく他人の意見に反抗して盛んに議論を上下したりなど致したものである。

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デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.89-94
底本の記事タイトル:二一九 竜門雑誌 第三四〇号 大正五年九月 : 実験論語処世談(一六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第340号(竜門社, 1916.09)
初出誌:『実業之世界』第13巻第16号(実業之世界社, 1916.08.01)