デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一

2. 父の家業は藍玉販売

ちちのかぎょうはあいだまはんばい

(16)-2

 私の父は、これまで談話したうちにも申述べ置いた通りで、藍玉の売買を家業に致して居つたものである。これは、純然たる農業と申すものでもなく半農半工、その上に猶ほ商までも兼ねた業体で、藍の栽培は農であるが、之を藍玉に製造するのが工、之を売買するのが商である。父は斯の藍玉売買を家業とし、之によつて生活を立てて居つたといふ丈けでは無い。家業に非常な趣味を持つて、年々歳々前年よりも良い藍玉を多く製造して売るといふ事を楽みにして暮らされたものである。
 随つて父は藍を栽培する地方の農業者間にも頗る評判が良く、渋沢は良い藍で無いと買はぬから、今年は一つ渋沢に買ひ取つて賞めてもらふやうになりたいものだなどと、孰も栽培に苦心して年々益々良い藍が出来るやうになつたものである。父は農家より藍葉を買ひ取り、之を藍玉に製造して紺屋に売り渡したものであるが、紺屋の方にも父の売る藍玉は頗る好評で、前年よりも今年の藍玉は上質であるなぞと賞めらるれば、父は之を又無き愉快として悦び、自分の家で売る藍玉の品質と産額とが年々歳々進歩してゆくのを見て、之に無上の楽みを感じて居られたものである。然し紺屋から受取る勘定は一年僅かに二回で、総て懸売となり、藍玉の製造が終つたところで之を紺屋に渡しても現金は手に入るのでなく、紺屋はその藍玉を使つて得意先きの依頼に応じ染物を染めて利潤を揚げ、藍玉の代金は盆と暮とに纏めて父に支払ふといふ事に、地方の習慣がなつて居つたのである。
 私は廿四歳に郷里を出てから、是まで既に申述べおける如き径路によつて仏蘭西に留学し、維新になつてから帰朝し、六年目に廿九歳で父に再会し、郷里にも久方振りで帰つたのである。然し私は父の家業を継いで藍玉売買に従事するわけにも参らぬので、妹に婿を迎へて生家の嫡流を継がせることに致したのであるが、父は明治四年十一月、私が造幣寮の事業を整理する為に大阪に出張中死病に冒されたのである。十五日に私は東京に帰つて之を聞いたものだから、直ぐ郷里に駆けつけたのであるが、その時父は既に重態に陥つて居つたのである。

全文ページで読む

デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.89-94
底本の記事タイトル:二一九 竜門雑誌 第三四〇号 大正五年九月 : 実験論語処世談(一六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第340号(竜門社, 1916.09)
初出誌:『実業之世界』第13巻第16号(実業之世界社, 1916.08.01)