7. 中江藤樹と二宮尊徳
なかえとうじゅとにのみやそんとく
(16)-7
子曰。徳不孤。必有隣。【里仁第四】
(子曰く、徳は孤ならず、必ず隣あり。)
弘法大師が高野山を開かれた時には、其処に多数の民衆が寄り集つて来たものである。新しい会社が一つ起つて、是まで辺鄙であつた土地に何か工場を建てるやうなことにでもなれば、矢張そこには民衆が多く集つて来て、その工場の出来た土地が昔と打つて変つた繁昌を来すやうになるものである。足尾であるとか、小坂であるとかいふ土地も、素は余り人の往来せぬ山奥であつたが、そこから巨額の銅が産るといふ事になれば、一朝にして変じて彼の如き繁華な土地になる。これ等は、利害関係によつて民衆が利のある処へ、蟻の甘きに寄る如く寄り集つて来る例だが、徳のある人も決して孤立の位置に立つやうなことのあるものでは無い。必ず精神的に其徳に共鳴し、其徳を崇敬して慕ひ懐く人を生じ、隣があるやうになると共に物質的にも亦其徳のある人の住んでる処へは、群衆が寄り集つて来て隣家の多くなるものである。(子曰く、徳は孤ならず、必ず隣あり。)
昔、大舜が居を構へた処には、移住して来る者が多く、忽ち市を為して其土地が繁昌するやうになつたものだとさへ伝へられる。早い話が徳の高い名誉のある人の家の近所に住ふ者は、何となく自分も徳ある人間に為つたかの如くに感ずるものである。近江聖人と崇められた中江藤樹先生の住んで居られた近江高島郡小川村などへは、その徳を慕つて寄り集つて来た者が多く、途中で藤樹先生に御逢ひすれば、村の者は皆道を譲つたものださうである。又、二宮尊徳先生が相馬の中村に住まはれて居つた時にも、矢張、尊徳先生の徳を慕つて其土地に多くの人が寄り集つて来たものである。藤樹先生も尊徳先生も共に実践躬行の人で、藤樹先生が曾て京都に赴かるる途中、駕の中から駕夫に人の践むべき道に就て平易に談られると、駕夫は之を聞いて感動し涙を流したといふほどのものである。又尊徳先生が民を諭さるる時にはまづ至誠を以て懇切に説き示し、話して居らるるうちには、御自分でも流涕せらるるほどであつたので、其感化の及ぶ所は実に甚大なるものであつたと伝へられる。
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- 中江藤樹, 二宮尊徳
- 論語章句
- 【里仁第四】 子曰、徳不孤、必有隣。
- デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.89-94
底本の記事タイトル:二一九 竜門雑誌 第三四〇号 大正五年九月 : 実験論語処世談(一六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第340号(竜門社, 1916.09)
初出誌:『実業之世界』第13巻第16号(実業之世界社, 1916.08.01)