デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一

5. 不言実行の大西郷公

ふげんじっこうのだいさいごうこう

(16)-5

子曰。君子欲訥於言。而敏於行。【里仁第四】
(子曰く、君子は言に訥にして、行に敏ならんことを欲す。)
 実業之世界社の野依君なぞは、茲に掲げてある章句の反対で、言には敏で行が之に副はぬといふ譏のある人かも知らんが、孔夫子の御弟子の子路の言として論語子路篇にも戴せられてある如く、「君子言之必可行也。君子於其言。無所苟而已矣。(君子は之れを言へば必ず行ふべき也。君子は其言に於て、苟もする所なきのみ)で君子は弁説を是れ事とする口端のみの勇者とならず、言ふよりも先づ行はんことを心懸くるものである。自ら実行し得られもせぬことをベラベラ油紙に火を点けたやうに喋舌り立てて見たところで、その弁説には何の権威も無いものである。弁説の権威は之を身に体して実行する事によつて始めて生ずるものである。道を天下に行はんとする心懸けのある君子が、言に訥にして行に敏ならん事を欲し、一言一句を苟もせず、言へば必ず之を行ふのは実に之が為めである。弁説に権威が無くなつてしまへば、如何に千万言を吐いたからとて、それは世道人心に何の裨益をも与へ得ぬ事になる。
 然ればとて、日本にも欧米の如く言論を重んずる風の漸く行はるるやうになつた今日の時代に於ては、如何に政治上の事や社会上の事などに関して意見があつても、自ら其衝に当つて実行し得る位置に就かぬ限り、一切評論がましい事をしては相成らぬ、又雄弁なぞも不必要であるといふ如き意味に解釈してはならぬ。社交の円満を図る為めには、シンネリムツツリとせずに愉快に話し合ふことも必要である。自分の意志を徹底的に発表する為めには、雄弁を揮ふ事も亦必要であらうが、孔夫子の趣旨は要するに法螺を吹いてはならぬ、人間に尊むべきものは弁説で無くつて行ひである、不言実行だといふにある。私の知つて居る維新当時の英雄のうちで、西郷隆盛さんなどは、或は「行に敏」とまで謂ひ得られぬかも知れぬが、兎に角平素は黙々として居られながら、行ふべしと考えられた事は言はずして之を決行せられた方で、言ふよりも行ふ方の人、即ち不言実行の人であらせられたやうに思はれる。

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デジタル版「実験論語処世談」(16) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.89-94
底本の記事タイトル:二一九 竜門雑誌 第三四〇号 大正五年九月 : 実験論語処世談(一六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第340号(竜門社, 1916.09)
初出誌:『実業之世界』第13巻第16号(実業之世界社, 1916.08.01)