デジタル版「実験論語処世談」(38) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.284-290

 「書経」は、政治の根本義を説いたものだが、孰れの時代に於ても政治の要は「書経」に説いてある処と毫も異りは無い。
 禹は「尚書」のうちに、「徳は惟れ政を善くす。政は民を養ふにあり。水火金木土殻惟れ修まり、徳を正くし、用を利し、生を厚くして惟れ和ぐにあり」と曰うてるが、古今東西、孰れの邦と時とを問はず苟も善政と名づけらるるものは、正徳、利用、厚生、惟和の外に出でぬのだ。然し政治も亦一種の技術であるから、時勢の変化、社会の進歩に随つて、之を実地に行ふ形式の上には猶且変化があり、変遷もある。如何に利用厚生を趣意とした政治でも、若し其の形式が時勢に適応しなければ、善政も遂に善政の実を挙げ得られず、政治の運用を誤まつたといふ事になる。
 私は明治六年の退官以来、一切政治に念を絶ち、政治方面より離れて実業方面にのみ専念して来たのだが、政治に対する趣味が無いといふのでは無い。政治の事も多少は気に懸る。然し私は新しい時勢に適応する新しい政治の術を研究して居らぬので、今更私が彼是れ政治論をやつて見たところが迚ても時勢に向くものでは無いと思つて差控へて居るが、私も若い時分には、前条にも屡〻申述べ置いた如く、政治に趣味を持つどころか、実地の政治に関係して、政治を行ふ当局者にならうとしたものだ。
 私が斯る念慮を起すに至つたに就て与つて力のあつたのは、その頃発行された「清英近世談」といふ書である。これは至極簡単な木版刷の冊子だが、支那が阿片の事から英国と事端を構へ、遂に戦争するまでになつた始末と其戦争の経過とを叙したもので、支那方にも当時陳化成、段永福等の勇将があつて能く防いだに拘らず、戦利あらずして遂に支那の国土の一部は、英国の為に奪はれてしまつた次第なぞが書かれてある。その時の英軍司令官が、エルリオツト及びフレーメルの両氏であることまでも載せられてあつた事は、今もなほ私の記憶に存する処だが、エルリオツトとはエリオツトの事だらう。私は斯る記事のある「清英近世談」を読んで非常に感憤し、日本も浮つかり晏然として過ごせば、必ずや外国から酷い目に遇はされ、遂に支那と同一の運命に陥らねばなるまいと考へたので、徳川幕府を倒して自ら親しく政治に干与し、従来の国政を一変し、日本を能く外国との競争に堪へ得る国家に仕上げてみようと思つたのである。
 先年印度の詩人タゴールが来朝して、氏と会見した際にも、タゴールは西洋諸邦の暴戻を痛撃し、西洋人が物質文明の利を追ふことにのみ急で、有害なる阿片を支那が買はぬからとて不道理千万にも之に戦争を仕掛けて其国土を割かしめたり、其他弱国と見さへすれば凡ゆる口実を構へて之を虐げ、毫も人道を尊重する処無きを憤り、案を打つて慷慨して居つたが、単に維新前に於ける私のみならず、何処の邦の人でも自覚しかけて来ると斯んな風に慷慨したくなるものかと、偶〻タゴールの感想が維新前に私の起した感想と同一であるのに思ひ当りタゴールも猶且私と同じ事を繰返して居るのだなと考へたのである。
 今度の欧洲戦争は、その初め独逸が我儘勝手を逞うして自国の利をのみ計らんとしたのに其端を発するが、タゴールが私と会見した際にも氏の言うた如く、物質的にのみ流れて利己専一になつてしまつてるのは、単り独逸ばかりで無い。西洋諸邦を挙げてみな然りと申しても敢て不可無きほどだ。これでは今度の欧洲戦争が一旦収つて平和が恢復しても、其将来に関し、甚だ以て懸念に堪へぬ次第である。依つて私は、先般廿五年振りで再び来朝した米国の宣教師で医学博士の称号があるジョン・シー・ベリー氏と会談した際にも、是等に関する疑義を同氏に訊してみたのである。
 ベリー氏は明治五年に初めて来朝し、基督教の宣教師として同廿六年まで二十一年間日本に在留し、主として中国及び京阪方面で伝道して居つたが、監獄改良の事にも尽力し、又久しく京都の同志社病院長を勤め、日本に於ける最初の完備した看護婦養成所とも目せらるべき同志社看護婦学校なぞをも起し、本邦の救護事業には少なからぬ貢献をしてくれた人で、朝鮮銀行の総裁であつた故市原盛宏氏なぞとも頗る親しい間柄であつたとの事だ。当時私は同氏と相見る機会を得なかつたが、今回の来朝を機とし、去る二月二十八日(大正七年)中央慈善協会は同氏を帝国ホテルに招待して歓迎会を開いたので、其の時私は初めて同氏と会談する機会を得たのである。それから二日後の三月二日、同氏は基督教美以派の監督ハリス博士に同道して、私を態〻兜町の事務所に訪問してくれたが、同氏は日本語を操るに頗る巧みで、ハリス博士は又当日所要があるからとて中座されたりなんかしたので旁〻長時間に亘り、私は緩る緩る同氏と腹蔵なく雑談し得られたのである。その際私がベリー氏に尋ねた所は斯うであつた。
 私は今日まで欧洲の文明は単に物質的のもので無く、その根底には堅実なる宗教信念もあり、又哲学もあるものだと思ひ、我国の文明が近来物質的にばかり流れ、精神的方面を疎かにし、利己一天張となる傾向あるを慨し、維新前仏国に留学し欧洲諸国の事情を知つて帰朝してからは、主として物質文明の興隆に及ばずながら力を注ぎ、金融に運輸に商工業に、国家の経済的発展を計らんとして努力し来れるにも拘らず、昨今は寧ろ精神的方面に意を傾け、之が為奔走するまでに致して居るほどである。然るに何ぞや、如何に基督教の権威が落ちた今日でも、斯くまで非人道になつては居まいと信じて居つた欧洲諸国が今度の戦争で其地金を露はすに至つたとでも謂はうか、弱肉強食の暴虐を到る処に演じ、曾て一たびは宗教改革の急先鋒たるマルチン・ルーテルを出した独逸が「国の為」といふ得手勝手な口実の下に侵略政策の張本となり、四隣を蚕食して財物を掠め、火を放ち、人を殺し、他国の生民を塗炭の苦に陥らしめて恬然恥る処無きのみか寧ろ之を誇とする如き始末だ。
 若し基督教家の説く如く、天に慈悲慈愛の神があるとしたら、その神は欧洲の今日が修羅の巷と化し去つたのを見て、果して如何に感ぜらるるか、それとも人心を支配する全智全能の神の力は、今日に至つて全く喪失せられてしまつたものか、甚だ以て疑無き能はずである。この点に関し欧米宗教家の見解は何んなであらうか、之を知りたいものであると、私はベリー氏に問うて見たのである。今を去る六十有余年前、嘉永安政の頃、孔孟の道徳説で固めあげられて居つた私がかの「清英近世談」を読んで悲憤慷慨し、西洋人を仁義を弁へぬ弱肉強食飽く無き虎狼の民なりとのみ一図に思ひ込み、こんな国民と交易なんかしては日本の一大事であるからと、鎖港説を主張したのも、欧洲の惨憺たる現状に照らして見れば、強ち間違つて居つたのでも無いらしく、私が洋行して彼の諸国の実際を見るに及び、欧洲には進歩せる物質文明の半面に又宗教的の崇高なる精神文明があるものだと思つて帰朝したのが、却て謬見であつたかの如くに思はれぬでも無く、昨是今非の感無き能はずである。
 欧洲の戦争とても、早晩止んで平和の克復を見るに相違無いが、欧洲の民心が今日の如き調子で弱肉強食を是れ事とするやうでは、各国の軍国主義は戦後も依然として改まらず、互に財力兵力をのみ競つて宗教の威力も、道徳の権威も、行はるるに至らぬだらうと思ふのである。之に関する欧米宗教家の意見は果して何んなものだらうか、斯う私は又重ねてベリー氏に尋ねて見たのである。
 私の発した是等の質問に対し、ベリー氏とて固より即座に明確なる答を与へられさうな筈は無いが、同氏の答は、兎に角明快を欠いたものであつた。即ち――自分としても戦後の形勢如何に就ては頗る懸念して居る。のみならず、米国の識者間にも種々の議論が戦はされて居る。然し、今日欧洲の天地に無道暴戻の行はれて居るのは、神の力が弱くなつたからでは無い。無道暴戻の者が多く現われて来たからだ。依て今後の宗教家は従前にも倍して発憤努力し、世界の罪悪と戦ひ世界の人類をして、個人としても将又国家としても自己中心の利己的邪念より脱し、利他博愛の精神を発揮するものとならしめねばならぬ。今日、神の力が弱くなつたやうに見えるのは、無道横暴を働く者の力が強くなつたからだ。弱肉強食の惨禍を世界より一掃せんとするには宗教家が単に利他博愛の精神を鼓吹するのみに満足せず、従前よりも力の強いものにならねばならぬ。それで無ければ迚ても、他人の邪念など矯正し得らるるもので無い。――これが大略ベリー氏答弁の趣旨だつたが、ベリー氏とても、宗教家として如何に戦後に処すべきか、到底明快なる案はあるまいと思ふのである。これが解決は単にベリー氏のみならず、総て欧米の宗教家に考慮して貰はねばならぬ点だが、日本人としても、精神的方面に多少の注意を払ふ者は、愈〻益々物質的に傾かんとする今後の大勢を抑止し、之を利他的のものとするには何うすれば可いか、大に研究すべきであらうと思ふのだ。
 舜は位を禹に譲らんとするに当り、天下を治むる法を禹に説いて知らしたうちに、「人心惟れ危く、道心惟れ微なり、惟れ精、惟れ一、允に厥の中を執れ」と教へてるが、その意は、人情は兎角得手勝手なもので、道義の念は兎角昧み易いもの故、専心一念能く人情道徳の中庸を得るやうに意を致すべきであるといふにある。上にあつて政を取る者が総てみな斯の心情でありさへすれば、欧洲戦争なんかも起らずに済んだのだが、この心が無いから弱肉強食ともなり暴戻横虐ともなるのである。政治の術には時代によつて如何に変化があつても、其根本には今日でも尭舜禹湯文武の時代でも其間に毫も変無く、「書経」の「尚書」なぞに説いてある処と同一なのだ。
 少し談話は逆戻りするやうになるが、「冉有曰。夫子為衛君乎云云」の一章は、前条に其の章の辞句を冒頭に掲げて感想を述べた際にも詳細申して置いた通り、問答の体が如何にも婉曲で、お互に孰も余りムキに成つて論じ合はず、其れと無く要領を得るやうになつて居り、誠に能く談話応酬の妙を極めたものだと評しても可いのである。又その間には、孔夫子が理窟一遍にも流れず、人情にばかりも囚はれず、義と情と礼とを併せ全うせらるる心持が充分に顕れて居る。これは論語子路篇にある事だが、曾て楚の葉県の知事たる葉公が孔夫子を見、自分の領内に正義の厲行せらるるのを誇気に語り、「吾党に躬を直くする者あり、其父羊を攘みて子之を証す」と、正義の為には子は父を訴へるほどだと得意になつて申されると、孔夫子は言下に、「我党の直き者は是に異なり、父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其中に在り」と反論し、如何に正義を愛するからとて父子相訴へるやうでは、之を「直」とは称し得られぬ、直の直たる処は子が父の為に隠し、父が子の為に隠す処にあると説破し、義理によつて人情を欠くに至るの非を説かれて居る。斯るところに孔夫子の非凡なる点がある事を忘れてはならぬのだ。
 前条に談話した時にも申して置いた如く、冉有と子貢、子貢と孔夫子との間の問答は、当時衛の君であつた輒と、輒の実父で国外に亡命して居つた蒯聵との間に衛の王位に関して戦争が起つた時に、その頃衛に仕へて居つた冉有が去就に惑うて其裁断を孔夫子に求めんとした際のものであるが、衛君輒の父に当る蒯聵が、その又父なる衛の霊公によつて国外へ逐はれるやうになつたのは一に霊公の夫人たる南子の方寸より出たことで、この南子といふ夫人は却〻煮ても焼いても食へぬ妖婦であつたらしく思へる。南子が宜しからぬ女であることは、論語雍也篇に、「子、南子を見る。子路悦ばず」の句があるによつても明かだ。支那には単り霊公の夫人南子のみならず、最も近い例として清朝の末路に西太后なぞいふ女もあつたほどで、辣腕を政治上に揮ふ女が古往今来却〻に多いのである。
 漢の高祖はあれほどの人傑ではあつたが、夫人の呂后には随分酷く悩まされたものだ。呂后は非常に嫉妬深い女で、高祖が其の寵妃戚氏の出たる如意を太子に立てんとするや、策を設けて之を阻止し、高祖が歿して孝恵帝の御代となるや、如意を鴆毒で殺してしまひ、その生母の戚夫人をも亦同じく殺したのだが、その殺し方が又如何にも残酷だ。手足を断るやら、眼をゑぐるやら、耳を煇すべるやら、其上瘖薬を飲ましめて厠の中へ押し込め置き、遂に死んでしまふやうにしたといふのだから、呂后の悪辣さ加減、全く以て想像に余りあるのみならず、孝恵帝が崩じて後は、自ら位に即いて朝に臨み、制を称し、遂に王となり専横を極めたので、呂后の歿するや其縁者の者が蜂起して乱を起し、高祖の鴻業も為にメチヤメチヤになつてしまひ、流石の漢も呂后によつて亡んでしまひさうに思はれた程だが、僅に平勃の断然たる所置により事無きを得、漢の社稷を安泰にすることができたのである。高祖も生前既に自分の歿後ともならば、戚氏の出たる如意が呂后の手によつて殺されるだらうと思ひ、深く之を心配して居つたのだ。高祖が愛子如意の為に泣いたのは、項羽が漢の軍に破られて垓下に追はれ「力山を抜き気世を蓋ふ、時利ならず、騅逝かず騅逝かず、奈何にす可き、虞や虞や若を奈何せん」と謡つて、愛妃虞美人の為に涙を注いだに比すれば、却て馬鹿気たところがあると、後世の人に評せられて居る。
 それから唐の時代になつてからも、高宗帝の夫人であつた武后なぞは随分辣腕を揮つた女である。后に冊立せられんとする議あるや、之に反対した者を殺すやら、自分が産んだ子でありながら自分に逆ふからとて太子に鴆毒を飲まして殺してしまふやら、随分勝手な真似をした上に、高宗帝の崩ずるや、その跡を襲いで即位した我が末子に当る中宗帝をも廃して自ら帝と称し、自分に不利なる唐の皇室関係の縁者を盛んに誅殺したりなんかして居る。支那は女が深閨の中にばかり閉ぢ籠つて容易に世間へ顔出しせぬ国風の邦だと謂はれてるが、呂后、武后、西太后等の如く傍若無人に思ひのままの辣腕を揮ふ女は、支那以外の邦に迚ても見られぬのである。支那が今日の如く女に圧迫を加へるやうな例制を施くに至つたのも、支那の女には生れ乍らにして斯る悪辣残忍の性行があるので、之を自由に解放して置けばその跋扈により社会の安寧秩序を害せらるるやうになるのを恐れ、多年の経験から割り出して、女を圧伏する必要を認むるに至つた結果であるやも知れぬ。
子曰。飯疏食。飲水。曲肱而枕之。楽亦在其中矣。不義而富且貴。於我如浮雲。【述而第七】
(子曰く、疏食を飯ひ、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす、楽み亦其中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し。)
 茲に掲げた章句も少し逆戻りになるのだが、この章句は兎角誤解され易く、孔夫子は世間に向つて粗衣疏食を勧め、つまらぬ食物を口にし、水を飲み、肱を枕にして生活せねば、真正の楽みは得られぬものだと説かれたかの如くに解釈され勝だ。然し、これは宋朝の儒者によつて取られた誤つた見解で、「疏食を飯ひ……」からの前半の句は、後半にある「不義にして富み且つ貴きは、我れに於て浮雲の如し」の句に対照する為に用ひたもので、不義を行つても富貴利達を求めようとするのは人として恥づべき事で、毫も楽しいわけのものでは無い。それよりは寧ろ水を飲んで疏食し、小さな陋屋に肱を枕にして暮す方が遥に楽みなものであると言はれたに過ぎぬのである。
 実際、粗衣疏食するのみで陋巷に住居して暮すのが人生の理想であり、富貴は浮雲の如きもの故之に一顧だにも払つてはならぬものだとすれば、これまでも屡々申述べ置ける如く、孔夫子の命のままに博く民に施して如何に衆を済はうとしても之を実現し得られ無くなる。不義によつて得る富貴は浮雲の如くであるから、不義をしてまでも富貴を得んとする必要は無いが、義により理によつて富貴を求むるのは、決して悪い事でも無ければ賤しい事でも無いのだ。
 真の富貴を得んとする道は、知識を獲得したり技術を修得したりするのと同じで、猶且致知格物に待たねばならぬのである。調査もし、研究もし、頭を充分に働かしてからで無いと迚ても真の富貴は得られぬものだ。不義や誤魔化しで富貴を得ようとしても到底できるものでは無い。仮りに何かの拍子で一時の富貴を得られたにしても、それは浮雲の如きものであるから、忽ち飛んで消えてしまふのである。私が理化学研究所の設立に骨を折つて奔走したのは、個人を富ますにも国家を富ますにも、致知格物が其根柢にならねばならぬものだと思つたからの事である。理化学研究所の設立によつて知を致し物に格れば、之によつて富を増進する道が自ら発見され、博く民に施して能く衆を済ひ得らるるやうになるでは無いか。徒らに宋儒の解釈に囚れて、孔夫子は人に富貴を賤む心を起させようとせられたものであるなど考へてはならぬ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.284-290
底本の記事タイトル:二六九 竜門雑誌 第三六四号 大正七年九月 : 実験論語処世談(第卅八回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第364号(竜門社, 1918.09)
初出誌:『実業之世界』第15巻第10,12号(実業之世界社, 1918.05.15,06.15)