デジタル版「実験論語処世談」(38) / 渋沢栄一

6. 高祖の呂后と高宗の武后

こうそのろこうとこうそうのぶこう

(38)-6

 漢の高祖はあれほどの人傑ではあつたが、夫人の呂后には随分酷く悩まされたものだ。呂后は非常に嫉妬深い女で、高祖が其の寵妃戚氏の出たる如意を太子に立てんとするや、策を設けて之を阻止し、高祖が歿して孝恵帝の御代となるや、如意を鴆毒で殺してしまひ、その生母の戚夫人をも亦同じく殺したのだが、その殺し方が又如何にも残酷だ。手足を断るやら、眼をゑぐるやら、耳を煇すべるやら、其上瘖薬を飲ましめて厠の中へ押し込め置き、遂に死んでしまふやうにしたといふのだから、呂后の悪辣さ加減、全く以て想像に余りあるのみならず、孝恵帝が崩じて後は、自ら位に即いて朝に臨み、制を称し、遂に王となり専横を極めたので、呂后の歿するや其縁者の者が蜂起して乱を起し、高祖の鴻業も為にメチヤメチヤになつてしまひ、流石の漢も呂后によつて亡んでしまひさうに思はれた程だが、僅に平勃の断然たる所置により事無きを得、漢の社稷を安泰にすることができたのである。高祖も生前既に自分の歿後ともならば、戚氏の出たる如意が呂后の手によつて殺されるだらうと思ひ、深く之を心配して居つたのだ。高祖が愛子如意の為に泣いたのは、項羽が漢の軍に破られて垓下に追はれ「力山を抜き気世を蓋ふ、時利ならず、騅逝かず騅逝かず、奈何にす可き、虞や虞や若を奈何せん」と謡つて、愛妃虞美人の為に涙を注いだに比すれば、却て馬鹿気たところがあると、後世の人に評せられて居る。
 それから唐の時代になつてからも、高宗帝の夫人であつた武后なぞは随分辣腕を揮つた女である。后に冊立せられんとする議あるや、之に反対した者を殺すやら、自分が産んだ子でありながら自分に逆ふからとて太子に鴆毒を飲まして殺してしまふやら、随分勝手な真似をした上に、高宗帝の崩ずるや、その跡を襲いで即位した我が末子に当る中宗帝をも廃して自ら帝と称し、自分に不利なる唐の皇室関係の縁者を盛んに誅殺したりなんかして居る。支那は女が深閨の中にばかり閉ぢ籠つて容易に世間へ顔出しせぬ国風の邦だと謂はれてるが、呂后、武后、西太后等の如く傍若無人に思ひのままの辣腕を揮ふ女は、支那以外の邦に迚ても見られぬのである。支那が今日の如く女に圧迫を加へるやうな例制を施くに至つたのも、支那の女には生れ乍らにして斯る悪辣残忍の性行があるので、之を自由に解放して置けばその跋扈により社会の安寧秩序を害せらるるやうになるのを恐れ、多年の経験から割り出して、女を圧伏する必要を認むるに至つた結果であるやも知れぬ。

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キーワード
劉邦, 呂雉, 高宗, 武則天
デジタル版「実験論語処世談」(38) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.284-290
底本の記事タイトル:二六九 竜門雑誌 第三六四号 大正七年九月 : 実験論語処世談(第卅八回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第364号(竜門社, 1918.09)
初出誌:『実業之世界』第15巻第10,12号(実業之世界社, 1918.05.15,06.15)