5. 支那の女に辣腕家多し
しなのおんなにらつわんかおおし
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前条に談話した時にも申して置いた如く、冉有と子貢、子貢と孔夫子との間の問答は、当時衛の君であつた輒と、輒の実父で国外に亡命して居つた蒯聵との間に衛の王位に関して戦争が起つた時に、その頃衛に仕へて居つた冉有が去就に惑うて其裁断を孔夫子に求めんとした際のものであるが、衛君輒の父に当る蒯聵が、その又父なる衛の霊公によつて国外へ逐はれるやうになつたのは一に霊公の夫人たる南子の方寸より出たことで、この南子といふ夫人は却〻煮ても焼いても食へぬ妖婦であつたらしく思へる。南子が宜しからぬ女であることは、論語雍也篇に、「子、南子を見る。子路悦ばず」の句があるによつても明かだ。支那には単り霊公の夫人南子のみならず、最も近い例として清朝の末路に西太后なぞいふ女もあつたほどで、辣腕を政治上に揮ふ女が古往今来却〻に多いのである。
- デジタル版「実験論語処世談」(38) / 渋沢栄一
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底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.284-290
底本の記事タイトル:二六九 竜門雑誌 第三六四号 大正七年九月 : 実験論語処世談(第卅八回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第364号(竜門社, 1918.09)
初出誌:『実業之世界』第15巻第10,12号(実業之世界社, 1918.05.15,06.15)